・・・当日私は妻と二人で、有楽座の慈善演芸会へ参りました。打明けた御話をすれば、その会の切符は、それを売りつけられた私の友人夫婦が何かの都合で行かれなくなったために、私たちの方へ親切にもまわしてくれたのです。演芸会そのものの事は、別にくだくだしく・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・を出ると、足は戎橋を横切り、御堂筋を越えて四ツ橋の文楽座へ向いた。 デンデンと三味線が太く哀調を予想させ、太夫が腹にいれた木の枕をしっかと押えて、かつて小出楢重氏が大阪人は浄瑠璃をうなる時がいちばん利口に見えるといわれたあの声をうなり出・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・『出家とその弟子』は邦枝完二君の監督で林君、村田君等が、有楽座で上演したのが最初の上演だった。村田実君は青山杉作君の親鸞に唯円を勤めて、自分が監督して京都でやった。後帝劇で舞台協会の山田、森、佐々木君等がはなばなしくやった。今の岡田嘉子・・・ 倉田百三 「『出家とその弟子』の追憶」
・・・有楽座帝国劇場歌舞伎座などを見物した帰りには必ず銀座のビイヤホオルに休んで最終の電車のなくなるのも構わず同じ見物帰りの友達と端しもなく劇評を戦わすのであった。上野の音楽学校に開かれる演奏会の切符を売る西洋の楽器店は、二軒とも人の知っている通・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 露西亜オペラの一座はそれより二年を過ぎて大正十年の秋重ねて渡来し、東京に在っては帝国劇場と有楽座とに演奏をつづけた。わたくしが始めてチャイコウスキイの作曲イウジェーン・オネーギンの一齣が其の本国人によって其の本国の語で唱われたのを聴得・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・また有楽座に開演せられる翻訳劇の観客に対しては特に精細なる注意をなした。わたしは漸くにして現代の婦人の操履についてやや知る事を得たような心持になった。それと共にわたしはいよいよわが制作の困難なることを知ったのである。およそ芸術の制作には観察・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・ カッフェープランタンの創設せられた当初、僕は一夕生田葵山井上唖々の二友と共に、有楽座の女優と新橋の妓とを伴って其のカッフェーに立寄った。入口に近いテーブルに冒険小説家の春浪さんが数人の男と酒を飲んでいたのを見たが、僕等は女連れであった・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ 我々が子供だった時に、子供芝居というものがあって、そこで昔からある、カチカチ山、瘤取りなどというものを有楽座で見た経験がある。大して面白いものでなかった。それ以来日本で子供のための子供の劇場というものが余り発達していない。 現在松・・・ 宮本百合子 「ソヴェト・ロシアの素顔」
・・・ うすっくらい悪い事の胞子がいっぱいとび散って居る様なまがりっかどの、かどに居る露店のおばあさんのところに先有楽座の美音会の時にあった様なとんだりはねたりや、紙人形やなんか私のすきらしいものばっかり並んで居るのを母は目ざとく見つけて呉れ・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・有楽座で初演。 一九二二年。「女親」帝劇に於て初演。大倉喜八郎一夜帝劇を買切りし際、「女親」の一部を改めて上演せしことを知り、劇作家協会と共に立ってその非を鳴らし、ついに帝劇を謝罪せしむ。シュニツレル選集をこしらえて印税を全部送ったのも・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
出典:青空文庫