・・・が、しまいには彼も我を折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎の取りなしを機会にして、左近の同道を承諾した。まだ前髪の残っている、女のような非力の求馬は、左近をも一行に加えたい気色を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・と笠井は口早にそこに来合せた仔細と、丁度いい機会だから折入って頼む事がある旨をいいだした。仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、閾に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとんとさせて火傷の方の半面を平手で・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して是正を試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在に・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・…… ――それを、この機会に、並木の松蔭に取出でて、深秘なるあが仏を、人待石に、密に据えようとしたのである。 成りたけ、人勢に遠ざかって、茶店に離れたのに不思議はあるまい。 その癖、傍で視ると、渠が目に彩り、心に映した――あのろ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・月待草に朝露しとど湿った、浜の芝原を無邪気な子どもを相手に遊んでおれば、人生のことも思う機会がない。 あってみない前の思いほどでなく、お光さんもただ懇切な身内の人で予も平気なればお光さんも平気であったに、ただ一日お光さんは夫の許しを得て・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
十年振りの会飲に、友人と僕とは気持ちよく酔った。戦争の時も出征して負傷したとは聴いていたが、会う機会を得なかったので、ようよう僕の方から、今度旅行の途次に、訪ねて行ったのだ。話がはずんで出征当時のことになった。「今の僕なら、君」と・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
夏目さんとは最近は会う機会がなかった。その作も殆んど読まない。人の評判によると夏目さんの作は一年ましに上手になって行くというが、私は何故だかそうは思わない、といって私は近年は全然読まないのだから批評する資格は勿論ないのであ・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・「あなたの御関係なすっておいでになる男の事を、ある偶然の機会で承知しました。その手続きはどうでも好い事だから、申しません。わたくしはその男の妻だと、只今まで思っていた女です。わたくしはあなたの人柄を推察して、こう思います。あなたは決して自分・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 少年は、その店から出て、往来に立ちましたときに、また、今夜も、あの坂の下に待っていて、もし、あの車がきたときに、後を押してやろうかなどと考えましたが、なんでも、いい機会というものは、二度あるものでない。お開帳の日だって、つぎの日には、・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・ すると、もう私は断り切れず、雨戸のことで諒解を求める良い機会でもあると思い、立って襖をあけた。 その拍子に、粗末な鏡台が眼にはいった。背中を向けて化粧している女の顔がうつっていた。案の定脱衣場で見た顔だった。白粉の下に生気のない皮・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫