・・・蘇生したけれど彼は満面に豌豆大の痘痕を止めた。鼻は其時から酷くつまってせいせいすることはなくなった。彼は能く唄ったけれど鼻がつまって居る故か竹の筒でも吹くように唯調子もない響を立てるに過ぎない。性来頑健は彼は死ぬ二三年前迄は恐ろしく威勢がよ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・余が枕辺近く寄って、その晒しを取り除けた時、僧は読経の声をぴたりと止めた。夜半の灯に透かして見た池辺君の顔は、常と何の変る事もなかった。刈り込んだ髯に交る白髪が、忘るべからざる彼の特徴のごとくに余の眼を射た。ただ血の漲ぎらない両頬の蒼褪めた・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・これが昼間見たのだったら何の不思議もなくて倉庫につけられた非常階段だと思えるだろうし、又それほどにまで気を止めないんだろうが、何しろ、私は胸へピッタリ、メスの腹でも当てられたような戦慄を感じた。 私は予感があった。この歪んだ階段を昇ると・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 白字で小万と書いた黒塗りの札を掛けてある室の前に吉里は歩を止めた。「善さんだッてお客様ですよ。さッきからお酒肴が来てるんじゃありませんか」「善さんもお客だッて。誰がお客でないと言ッたんだよ。当然なことをお言いでない」と、吉里は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・諫を聴ずして怒らば先づ暫く止めて、後に夫の心和ぎたる時又諫べし。必ず気色を暴し声をいらゝげて夫に逆い叛ことなかれ。 此一章は専ら嫉妬心を警しむるの趣意なれば、我輩は先ず其嫉妬なる文字の字義を明にせんに、凡そ他人の為す所にして我身・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そこで日本と西洋との比較を止めて、日本画中の比較評論、西洋画中の比較評論というように別々に話してもろうた。そうすると一日一日と何やら分って行くような気がして、十ヶ月ほどの後には少したしかになったかと思うた。その時虚心平気に考えて見ると、始め・・・ 正岡子規 「画」
・・・すると父は手紙を読んでしまってあとはなぜか大へんあたりに気兼ねしたようすで僕が半分しか云わないうちに止めてしまった。そしてよく相談するからと云った。祖母や母に気兼ねをしているのかもしれない。五月八日 行く人が大ぶあるようだ。・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 廻すのを止め、一ヵ所を指さした。「なあに」 覗いて見て、陽子は笑い出した。「――貴君じゃあるまいし」「なに? なに?」 ふき子が、従姉の胸の前へ頭を出して、忠一の手にある献立を見たがった。「サンドウィッチ」する・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・あるいはまた急に踏まれた安価にまけて、買い手を呼び止める、買い手はそろそろ逃げかけたので、『よろしい、お持ちなされ!』 かれこれするうちに辻は次第に人が散って、日中の鐘が鳴ると、遠くから来た者はみな旅宿に入ってしまった。 シュー・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・と呼びかけながら、追いすがって押し止めた。続いて二三人立ちかかって、権兵衛を別間に連れてはいった。 権兵衛が詰衆に尋ねられて答えたところはこうである。貴殿らはそれがしを乱心者のように思われるであろうが、全くさようなわけではない。父弥一右・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫