・・・富坂の火避地には借家が建てられて当時の名残の樹木二、三本を残すに過ぎない。水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除けられ、古びた練塀は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門はもう影も形もない・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・嘗て初夏の夕に来り見た時、まだ苗であった秋花は霜枯れた其茎さえ悉く刈去られて切株を残すばかりとなっていた。そして庭の隅々からは枯草や落葉を燬く烟が土臭いにおいを園内に漲らせていた。 わたくしは友を顧みて、百花園を訪うのは花のない時節に若・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身と残す。試合果てて再びここを過ぎるまで守り給え」「守らでやは」と女は跪いて両手に盾を抱く。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。 この時櫓の上を烏鳴き過ぎて、夜は・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・まあ鼻の下だけは残す事にしようと一人できめる。職人が残しましょうかと念を押すくらいだから、残したって余り目立つほどのものでもないにはきまっている。「源さん、世の中にゃ随分馬鹿な奴がいるもんだねえ」と余の顋をつまんで髪剃を逆に持ちながらち・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ また政治の働は右の如く活溌なるがゆえに、利害ともにその痕跡を遺すこと深からず。たとえば政府の議定をもって、一時租税を苛重にして国民の苦しむあるも、その法を除くときはたちまち跡を見ず。今日は鼓腹撃壌とて安堵するも、たちまち国難に逢うて財・・・ 福沢諭吉 「政事と教育と分離すべし」
・・・されば今日の政治家が政事に熱心するも、単に自身一時の富貴のためにあらず、天下後世のために、国民の私権を張り公権を伸ばすの道を開かんとするの趣意にこそあれば、後の世の政治社会に宜しからざる先例を遺すは、必ず不本意なることならん。もしもその本心・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・そして生涯精励であるいかなる作家も、最後には、自分で書ききれない一篇の小説を、自分の人生の真髄に応じて後に生きつづけてゆく者の間へ遺すものだということにこころうたれた。 宮本百合子 「あられ笹」
・・・何処かで人間らしいあったかい人づきあいを欠いて、やっとこさと金を溜めて、どうやら家を建てるより子供の教育だ、立派な子孫を残すために、小さい碌でもない財産を置くより子供の体にかけようと熱心に貯金していたら、それがどうでしょう、このごろは金の値・・・ 宮本百合子 「社会と人間の成長」
・・・これを逸すれば悔いを永久に残すに相違ない。味わえるだけの歓楽を味わいつくそうではないか。こういう心持ちになる時期のあることは、誰でもまぬかれ難い所だろうと思います。恋、女、酒あるいは芸術、そういうものは猛烈に我々を誘惑にかかるのです。時には・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
・・・かわらず、ありのままのおのれを露呈するように迫ってくるが、しかしそういう激発があっても、普通の場合ならば傷痕を残さずにすむような出来事が、ここでは冷厳な現実のために、生涯癒えることのない大きい傷あとを残すことになる。従って青春の情熱そのもの・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫