・・・新やんのこと、あたし、残らず聞いて知っています。新やん、あなたはちっとも悪いことしなかったのよ。立派なものよ。あたし、昔から信じていたわ。新やんは、いいひとよ。ずいぶんお苦しみなさいましたのね。あたし、あちこちの人から聞いて、みんな知ってい・・・ 太宰治 「花燭」
・・・百人でも千人でも相当なものであれば残らず博士にすればよい。それほど目出度いことはないのである。そうすれば学位に対する世間の迷信も自然に消滅すると同時に学位というものの本当の価値が却って正常に認識されるであろうと思われる。 大学でも卒業し・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・俳句を研究してある程度まで理解しているあるフランス人に言わせると日本人は一人残らずみんな詩人であるという。これは単に俳句の詩形が短くてだれでもまねやすいためであり、単にそれだけであると思ってはならない。そういう詩形を可能ならしめる重大な原理・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・ 釣革をば一ツ残らずいろいろの手が引張っている。指環の輝くやさしい白い手の隣りには馬蹄のように厚い母指の爪が聳えている。垢だらけの綿ネルシャツの袖口は金ボタンのカフスと相接した。乗換切符の要求、田舎ものの狼狽。車の中は頭痛のするほど騒し・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで眼をっていたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて眼を閉じた。すると白い男が、こう云った。「旦那は表の金魚売を御覧なすったか」 自分は見ないと云った。白い男はそれぎ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・大抵目ぼしい、小作人組合の主だった、は、残らず町の刑務所へ抛り込まれてしまった。「これで、当分は枕を高くして寝られる」と地主たちが安心しかけた処であった。 枕を高くした本田富次郎氏は、樫の木の閂でいきなり脳天をガンとやられた。 ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・車掌でも運転手でも一人残らずみんなデモに参加するんだ。 やがて遠くから音楽が聞えだした。ソラ! 出て見ろ! 町の角に立派な出来たての郵電省がある。幾条もの赤旗で飾られた正面玄関の石段に立って、群集と一緒に街の上手を見渡すと、来るゾ!・・・ 宮本百合子 「勝利したプロレタリアのメーデー」
出典:青空文庫