・・・これを、花やかに美しい、たとえばおとぎ話の王女のようなベコニアと並べて見た時には、ちょうど重々しく沈鬱なしかも若く美しい公子でも見るような気がした。花冠の下半にたれた袋のような弁の上にかぶさるようになった一片の弁は、いつか上に向き直って袋の・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・ 其の男の顔中に漲って居る底奥い沈鬱さと色が大変よく叔父に似通って居るからなのである。 一番思い出さるべき顔の様子までその様に自分のものは不明瞭であるから、これから書いて見様とする種々な時に起った様々な事柄の互の間には何の連絡もなく・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・そして、沈鬱だ。 昨夜深更まで碁を打っていた隣室の客、もう朝飯を食べている声がする。Y、切なそうな顔つきで枕についたまま、「――あなた一人で行って」と云う。私が服装を整えたり、食事をしたりするのを、片寄せた床の中から、風邪引・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・それが過ぎると反動が来て、沈鬱になって頭を低れ手を拱いて黙っている。 宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れていたが、今の様子はそれとも変って来ているのである。朝夕平穏な時がなくなって、始終興奮している。苛々したような起居振舞をする。それ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・今実際にみたような沈鬱な人物であろうとは、決して思っていなかった。この時よりずっと後になって、僕はゴリキイのフォマ・ゴルジエフを読んだが、若しきょうあのフォマのように、飾磨屋が客を攫まえて、隅田川へ投げ込んだって、僕は今見たその風采ほど意外・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・食事のときも、集っている将校たちのどの顔も沈鬱な表情だったが、栖方だけ一人活き活きとし笑顔で、肱を高くビールの壜を梶のコップに傾けた。フライやサラダの皿が出たとき、「そんな君の尉官の襟章で、ここにいてもいいのですか。」と梶は訊ねてみた。・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫