・・・一人が看守に住所姓名を云っている間に、他の一人がこっちにチラリと流眄をくれ、何か合図をした。女の同志は濡手拭で頬を押えたまま金網へすりついて立っている。新たに来た二人は別々の監房へ入れられた。「くやしいわ、二人とも×××車庫で、しっかり・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 薔薇液を身に浴び、華奢な寛衣をまとい、寝起きの珈琲を啜りながら、跪拝するバガボンドに流眄をする女は、決して、その情調を一個の芸術家として味って居るのではございません。 こちらの婦人の華美と、果を知らぬ奢沢は、美そのものに憧れるので・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ もう一遍、さも育ちきった若者らしく、じろりと私に流眄をくれ、かたりと岡持をゆすりあげ、頓着かまいのない様子で又歩き出す。三尺をとっぽさきに結んだ小さい腰がだぶだぶの靴を引ずる努力で動く拍子に、歌い出した鼻唄が、私の耳に入って来る。・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・そして流眄で本の題を見て小声で云って見たりしている。百貨店であっちのショウ・ケース、こっちのショウ・ケースと次々のぞく。そのように見ている。 本への愛というようなことは、言葉に出してしまうと誇張された響をもつが、やはり人間の真面目な知慧・・・ 宮本百合子 「祖父の書斎」
・・・パリでトルストイに一生忘られない戦慄を与えたのは娼婦のあでやかな流眄ではなくて、ギロチンにかけられた死刑囚の頭と胴とが別々に箱の中にころがり落ちる時の重い響きであった。トルストイは作家仲間と酒をのみ、ジプシーの歌をききながらも、ツルゲーネフ・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・ マダム・ブーキンはちらりと素早い流眄をマリーナに与えた。が、気落ちしているマリーナ・イワーノヴナはそれを捕えず、ただジェルテルスキーが家へ行こうと云ったのをだけ理解したように、重々しく椅子から立ち上った。 二・・・ 宮本百合子 「街」
・・・ 緑色の仕着せを着た音楽隊はフィガロの婚礼を奏し、飾棚にロココの女の入黒子で流眄する。無数の下駄の歯の音が日本的騒音で石の床から硝子の円天井へ反響した。 エスカレータアで投げ上げられた群集は、大抵建物の拱廊から下を覗いた。八階から段・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・そして、今なお、一生懸命にふり出した時の希望をすてず、悪戦し苦闘している女の仲間を、憫然らしく流し目にみる。ものわかりのわるい人たちとしてみる。 若さを喪失することにある悪は、フランスの貴族的な女詩人マダム・ノアイユが詠歎したような哲学・・・ 宮本百合子 「ものわかりよさ」
出典:青空文庫