・・・前面忽ち見る海水盆の如く大島初島皆手の届くばかりに近く朝霧の晴間より一握りほどの小岩さえありありと見られにけり。 秋の海名も無き島のあらはるゝ これより一目散に熱海をさして走り下りるとて草鞋の緒ふッつと切れたり。 草鞋の・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・五十銭で買ってもらった釣竿を持ち、小さいなつめ形の顔の上に途方もなく大きい海水帽をかぶり――その鍔をフワフワ風に煽らせながら、勇壮に釣に出かける。彼女を堀に誘うのは、噂に聞いた鯉だ。誰も釣針を垂れないからこの堀には立派な鯉がいますよ、と或る・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ 今朝人間界に舞い下りて、彼方此方ぶらついていると、大地の神の衣の襞の海水が怪しく震えているのに目がつきました。使者二 私共は素早く、馬鹿正直の翻車魚を捕えました。彼奴は、見ないことを云えない代り、知っていることを隠す術を知りませ・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・人通りの稀な街路の、右手は波止場の海水がたぷたぷよせている低い石垣、左側には、鉄柵と植込み越しに永年風雨に曝された洋館の閉された窓々が、まばらに光る雨脚の間から、動かぬ汽船の錆びた色を見つめている。左右に其等の静かな、物懶いような景物を眺め・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 勝気らしくステッキをぐっと倒して深く砂を掘り起した拍子に、力が余り、ステッキの先で強く海水を叩きつけた。飛沫が容赦なく藍子のかがんでいる顔や前髪にかかった。「はっはっはっ、こりゃ愉快だ」「生意気にこんな海でも塩っからい」 ・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・タブ……タブ……物懶く海水が船腹にぶつかり、波間に蕪、木片、油がギラギラ浮いていた。彼方に、修繕で船体を朱色に塗りたくられた船が皮膚患者のように見えた。鴎がその檣のまわりを飛んだ。起重機の響……。 ダーリヤの、どこまでも続く思い出を突然・・・ 宮本百合子 「街」
・・・初めは海中では駄目だろうと思っていたんですが、海水は塩だから、空気中より海中の方が、効力のあることが分りましたよ。」「へえ、一万フィートなら相当なものだな。うまくゆきますか、飛行機だと落ちますね。」「落ちました。初め操縦士と合図しと・・・ 横光利一 「微笑」
・・・それを見ようと思って、己は海水浴場に行く狭い道へ出掛けた。ふと槌の音が聞えた。その方を見ると、浴客が海へ下りて行く階段を、エルリングが修覆している。 己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽の庇に手を掛けたが、直ぐそのまま為事を続けている。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫