・・・そしてうやうやしく一つの包みを渡すのである。同じ紙で包んで、同じ紐で縛ってある。おれははっと思うと、がっかりしてその椅子に倒れ掛かった。ボオイが水を一ぱい持って来てくれた。 門番がこう云った。「いや、大した手数でございましたそうです。し・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・を一円とって還り路の切符を渡す。二十余年の昔、ヴェスヴィアスに登った時にも火口丘の上り口で「税」をとられた。その時はこの税の意味を考えたが遂に分からなかった。この峰の茶屋の税もやはり不思議な税の一つである。あとで聞くとこれは箱根土地株式会社・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・と僕は持合せた拾円紙幣二枚を渡すと、お民はそれを手に取ったまま、暫く黙って僕の顔を見た後、「後はいつ、いただけるんでしょう。」「それだけじゃ足りないのかね。」 お民は答えないで、徐に巻煙草をのみはじめた。「僕はお前さんに金を・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・と碌さんが相手に洋盃を渡す。「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」と圭さんが云う。「だって玉子は僕が誂らえたんだぜ」「しかし四つとも食う気かい」「あしたの饂飩が気になるから、このうち二個は携帯して行こうと思うんだ」「う・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓へ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓の萎びた手を力一杯握りしめた。 そして表へ出た。階段の第一段を下るとき、溜っていた涙が私の眼から、ポトリとこぼれた。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・古への礼に男女は席を同くせず、衣裳をも同処に置ず、同じ所にて浴せず、物を受取渡す事も手より手へ直にせず、夜行時は必ず燭をともして行べし、他人はいふに及ばず夫婦兄弟にても別を正くすべしと也。今時の民家は此様の法をしらずして行規を乱にして名を穢・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・いいか、もし、来なかったらすぐお前らを巡査に渡すぞ。巡査は首をシュッポンと切るぞ。」 あまがえるどもはみんな、お日さまにまっさおにすきとおりながら、花畑の方へ参りました。ところが丁度幸に花のたねは雨のようにこぼれていましたし蜂もぶんぶん・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ 命ぜられた品をとって渡すと、顔ほどは美しくない彼女の二つの手は、眠い猫のようにすうっと又エプロンの上に休んで仕舞う。 さほ子は、困った眼付で、時々其手の方を眺た。「――まあ仕方がない。様子が判ったらやるようになるだろう」 ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・拾いし者は速やかに返すべし――町役場に持参するとも、直ちにイモーヴィルのフォルチュネ、ウールフレークに渡すとも勝手なり。ご褒美として二十フランの事。』 人々は卓にかえった。太鼓の鈍い響きと令丁のかすかな声とが遠くでするのを人々は今一度聞・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・逓信省で車掌に買って渡す時計だとかで、頗る大きいニッケル時計なのである。針はいつもの通り、きちんと六時を指している。「おい。戸を開けんか。」 女中が手を拭き拭き出て来て、雨戸を繰り開ける。外は相変らず、灰色の空から細かい雨が降ってい・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫