・・・さっと一汐、田越川へ上げて来ると、じゅうと水が染みて、その破れ目にぶつぶつ泡立って、やがて、満々と水を湛える。 汐が入ると、さて、さすがに濡れずには越せないから、此処にも一つ、――以前の橋とは間十間とは隔たらぬに、また橋を渡してある。こ・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ただ往時の感情の遺した余影が太郎坊の湛える酒の上に時々浮ぶというばかりだ。で、おれはその後その娘を思っているというのではないが、何年後になっても折節は思い出すことがあるにつけて、その往昔娘を思っていた念の深さを初めて知って、ああこんなにまで・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・これも太古の池で中に湛えるのは同じく太古の水であろう、寒気がする程青い。いつ散ったものか黄な小さき葉が水の上に浮いている。ここにも天が下の風は吹く事があると見えて、浮ぶ葉は吹き寄せられて、所々にかたまっている。群を離れて散っているのはもとよ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・間もなく私はまっ白な石英の砂とその向うに音なく湛えるほんとうの水とを見ました。 砂がきしきし鳴りました。私はそれを一つまみとって空の微光にしらべました。すきとおる複六方錐の粒だったのです。(石英安山岩か流紋岩 私はつぶやくように・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ルネッサンスは、モナ・リザにああいう微笑を湛える人間的自由は与えたが、そのさきの独立人としての婦人の社会的行動は制御していたのであった。 こうしてみればルネッサンスの華やかな芸術も、その時代の人達を完全に解放してはいなかったことが明かで・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・ 護国寺の紅葉や銀杏の黄色い葉が飽和した秋の末の色を湛えるようになった。或日、交叉点よりの本屋によった。丁度、仕入れして来たばかりの主人が、しきりに、いろんな本を帳場に坐っている粋なおかみさんにしまわせている。「こんなのもいい本・・・ 宮本百合子 「「青眉抄」について」
・・・そういう情感そのものが、世界史的規模をその底に湛えるものであって、日本の生活の端々をも瑞々しくとらえ深め描き出してゆく、そういう作家が育って行かなければなるまいと思える。 作家としての自分の心のなかにそういう遠い遠い願望がひそんでいて、・・・ 宮本百合子 「遠い願い」
出典:青空文庫