・・・或晩私は背戸の据風呂から上って、椽側を通って、直ぐ傍の茶の間に居ると、台所を片着けた女中が一寸家まで遣ってくれと云って、挨拶をして出て行く、と入違いに家内は湯殿に行ったが、やがて「手桶が無い」という、私の入っていた時には、現在水が入ってあっ・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・洗面所の傍の西洋扉が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、筵がこいにしたのもあり、足場を組んだ処があり、材木を積んだ納屋もある。が、荒れた厩のようになって、落葉に埋もれた、一帯、脇本陣とでも言いそうな旧家が、いつか世・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 山中の湯泉宿は、寂然として静り返り、遠くの方でざらりざらりと、湯女が湯殿を洗いながら、歌を唄うのが聞えまする。 この界隈近国の芸妓などに、ただこの湯女歌ばかりで呼びものになっているのがありますくらい。怠けたような、淋しいような、そ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 夕暮近く湯殿へ行った。うまい工合に誰もいなかった。小柄で、痩せて、貧弱な裸を誰にも見られずに済んだと、うれしかった。湯槽に浸ると、びっくりするほど冷たかった。その温泉は鉱泉を温める仕掛けになっているのだが、たぶん風呂番が火をいれるのを・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・灸をすえて三十分後にすぐ温泉に浸り、そして十三時間湯殿から一歩も出ず、灸の穴へひっきりなしに湯気をあてて置けば良いのだ。これをむつかしい言葉で言うと温泉灸療法という……。いや、言葉はどうでもよい。わかったね。十三時間温泉にいるんですよ」・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・せめて降りやんでくれたらと、客を湯殿に案内したついでに帳場の窓から流川通を覗いてみて、若い女中は来年の暦を買いそこねてしまった。 毎年大晦日の晩、給金をもらってから運勢づきの暦を買いに出る。が、今夜は例年の暦屋も出ていない。雪は重く、降・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・此処は水乏しくして南の方の澗に下る八町ならでは得る由なしと聞けるに、湯殿に入りて見れば浴槽の大さなど賑える市の宿屋も及ばざる程にて、心地好きこと思いのほかなり。参詣のものを除きここの人々のみにて百人に近しといえば、まことに然もあるべきことな・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・朝、私が湯殿へ行く途中、逢う女中がすべて、「先生、おはようございます。」と言うのだった。私が先生と言われたのは、あとにもさきにもこのときだけである。 作家としての栄光の、このように易々と得られたことが、私にとって意外であった。窮すれば通・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・すました顔をして応接室を出て、それから湯殿に行き靴下を脱いで足を洗った。不思議な行為である。けれども次女は、此の行為に依ってみずからを浄くしているつもりなのである。変態のバプテスマである。これでもう、身も心も清浄になったと、次女は充分に満足・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
毎朝起きて顔を洗いに湯殿の洗面所へ行く、そうしてこの平凡な日々行事の第一箇条を遂行している間に私はいろいろの物理学の問題に逢着する。そうしていつも同じようにそれに対する興味は引かれながら、いつまでもそのままの疑問となって残・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
出典:青空文庫