・・・「何、滅多にゃいないんだ。」 僕等は四人とも笑い出した。そこへ向うからながらみ取りが二人、(ながらみと言うのは螺魚籃をぶら下げて歩いて来た。彼等は二人とも赤褌をしめた、筋骨の逞しい男だった。が、潮に濡れ光った姿はもの哀れと言うよりも・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・感銘そのものの誤は滅多にはない。「技巧などは修辞学者にも分る。作の力、生命を掴むものが本当の批評家である。」と云う説があるが、それはほんとうらしい嘘だ。作の力、生命などと云うものは素人にもわかる。だからトルストイやドストエフスキイの翻訳が売・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
保吉は三十になったばかりである。その上あらゆる売文業者のように、目まぐるしい生活を営んでいる。だから「明日」は考えても「昨日」は滅多に考えない。しかし往来を歩いていたり、原稿用紙に向っていたり、電車に乗っていたりする間にふ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・それは吹雪も吹雪、北海道ですら、滅多にはないひどい吹雪の日だった。市街を離れた川沿いの一つ家はけし飛ぶ程揺れ動いて、窓硝子に吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重に遮って、夜の暗さがいつまでも部屋から退かなかった。電燈・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 何、米にかねがね聞いている、婆さんお前は心懸の良いものだというから、滅多に人にも話されない事だけれども、見せて上げよう。黄金が肌に着いていると、霧が身のまわり六尺だけは除けるとまでいうのだよ、とおっしゃってね。 貴方五百円。 ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・こんなに景色のよいことは滅多にありません。そんなに人に申訣のない様な悪いことはしないもの、民さん、心配することはないよ」 月あかりが斜にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけた。目の先七八間の所は木の蔭で薄暗いがそれから向うは畑一・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・そして、僕が残酷なほど滅多に妻子と家とを思い浮べないのは、その実、それが思い浮べられないほどに深く僕の心に喰い込んでいるからだという気がした。「ええッ、少し遊んでやれ!」 こう決心して、僕はなけなしの財布を懐に、相変らず陰欝な、不愉・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・軽焼の後身の風船霰でさえこの頃は忘られてるので、場末の駄菓子屋にだって滅多に軽焼を見掛けない。が、昔は江戸の名物の一つとして頗る賞翫されたものだ。 軽焼は本と南蛮渡りらしい。通称丸山軽焼と呼んでるのは初めは長崎の丸山の名物であったのが後・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・平生往来しない仲でも、僅か二年か三年に一遍ぐらいしか会わないでも、昔し親しくした間柄は面と対った時にいい知れないなつかしさがある。滅多に会わないでも永い別れとなると淋しい感がある。 殊に鴎外の如き一人で数人前の仕事をしてなお余りある精力・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・中には沼南が顔に泥を塗られた見にくさを箔でゴマカそうとするためのお化粧的偽善だというものもあるが、偽善でも何でも忘恩の非行者に対してこういう寛容な襟度を示したものは滅多にない。 沼南にはその後段々近接し、沼南門下のものからも度々噂を聞い・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
出典:青空文庫