・・・故郷のいさご路、雨上がりの湿った海岸の砂路、あの滑らかな心地の好い路が懐しい。広い大きい道ではあるが、一つとして滑らかな平らかなところがない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛もその半ばを没してしまうのだ。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・朝まだ暗いうちに旧城の青苔滑らかな石垣によじ上って鈴虫の鳴いている穴を捜し、火吹竹で静かにその穴を吹いていると、憐れな小さな歌手は、この世に何事が起ったかを見るために、隠れ家の奥から戸口に匍いだしてくる。それを待構えた残忍な悪太郎は、蚊帳の・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・白い襦袢に白い腰巻をして、冬大根のように滑らかな白い脛を半分ほど出してまめまめしく、しかしちんまりと静かに働いていた。「お早よう」道太は声かけた。「お早よう。眠られたかどうやったやら」「よく寝た」そう言って道太が高い流しの前へ行・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ そしてそれっきり浪はもう別のことばで何べんも巻いて来ては砂をたててさびしく濁り、砂を滑らかな鏡のようにして引いて行っては一きれの海藻をただよわせたのです。 そして、ほんとうに、こんなオホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂や・・・ 宮沢賢治 「サガレンと八月」
・・・ 洋傘直しは引き出しから合せ砥を出し一寸水をかけ黒い滑らかな石でしずかに練りはじめます。それからパチッと石をとります。(おお、洋傘直し、洋傘直し、なぜその石をそんなに眼の近くまで持って行ってじっとながめているのだ。石に景色が描いてあ・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
雪渡り その一(小狐の紺三郎 雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来ているらしいのです。「堅雪かんこ、しみ雪しんこ。」 お日様がまっ白に燃えて百合の匂を撒きちらし又雪・・・ 宮沢賢治 「雪渡り」
・・・その声はあおぞらの滑らかな石までひびいて行きましたが又それが波になって戻って来たとき木霊はドキッとしていきなり堅く胸を押えました。 そしてふらふら次の窪地にやって参りました。 その窪地はふくふくした苔に覆われ、所々やさしいかたくりの・・・ 宮沢賢治 「若い木霊」
・・・に到達し、それから比較的滑らかにいくつかの短篇をかき、やがてそういう滑らかさの反復に作家として深い疑いを抱きだした、その最後の作品であるから。この作品を書いて程なく、ソヴェトを中心とするヨーロッパ旅行に出発した。「赤い貨車」は一九二八年・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第四巻)」
・・・と云いながら、お金に油をさし、いよいよ滑らかになる女房の舌の働きに感心して居た。 専売局に、朝から晩まで働いて家の暮しを立てて居た。 今年二十三になる恭二にはまだ独立するだけのものは取れなかった。 体は弱し、中学を出たき・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・三時前から、ひえびえとした冷たさが、滑らかな板の面を流れる。夏じゅう、六番ほどの小鳥を入れた籠は、その曲った方の板敷に置かれて居た。夫の書斎から差すほのかな灯かげの闇で、夜おそく、かさかさと巣の中で身じろぐ音などが聞える。 ところが四五・・・ 宮本百合子 「餌」
出典:青空文庫