・・・ 夏は、若い者共の泳場となり、冬は、諏訪の湖にあこがれる青年が、かなり厚く張る氷を滑るのであった。此等の池の美くしいのも只夏ばかりの僅かの間である。山々が緑になって、白雲は様々の形に舞う。 池の水は深く深くなだらかにゆらいで、小川と・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・いつものお婆さんなら、少し鼻にかかった作り声で、滑るように「お暑いこってござりやすないと返事をする筈なのである。 けれども、今日は如何うかして、小学校の子供のように、お婆さんは只コックリと頭を下げた限りで、ぼんやりと天日に頭を曝・・・ 宮本百合子 「麦畑」
・・・車道を辷るシトロエンが夢のようなレモン色だ。女の赤い帽子、総ての色調を締める黒の男性散策者。 人は心を何ものかにうばわれたように歩く。……歩く。葉巻の煙、エルムの若葉の香、多くの窓々が五月の夕暮に向って開かれている。 やがて河から靄・・・ 宮本百合子 「わが五月」
出典:青空文庫