・・・そこで、娘も漸く、ほっと一息つく事が出来ました。」「私も、やっと安心したよ。」 青侍は、帯にはさんでいた扇をぬいて、簾の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた白丁が五六人、騒々しく笑い興じながら、・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・ よくこれほどあるもんだと思わせた長雨も一カ月ほど降り続いて漸く晴れた。一足飛びに夏が来た。何時の間に花が咲いて散ったのか、天気になって見ると林の間にある山桜も、辛夷も青々とした広葉になっていた。蒸風呂のような気持・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・彼の徳川時代の初期に於て、戦乱漸く跡を絶ち、武人一斉に太平に酔えるの時に当り、彼等が割合に内部の腐敗を伝えなかったのは、思うに将軍家を始めとして大名小名は勿論苟も相当の身分あるもの挙げて、茶事に遊ぶの風を奨励されたのが、大なる原因をなし・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、老の漸く来らんとするころとうとう一の富を突き当てて妙齢の美人を妻とした。 尤も笑名はその時は最早ただの軽焼屋ではなかった。将軍家大奥の台一式の御用を勤めるお台屋の株を買って立派な旦那衆となって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
私は、その青春時代を顧みると、ちょうど日本に、西欧のロマンチシズムの流れが、その頃、漸く入って来たのでないかと思われる。詩壇に、『星菫派』と称せられた、恋愛至上主義の思潮は、たしかに、このロマンチシズムの御影であった。 それは、ち・・・ 小川未明 「婦人の過去と将来の予期」
・・・と自分で叫びながら、漸く、向うの橋詰までくると、其処に白い着物を着た男が、一人立っていて盛に笑っているのだ、おかしな奴だと思って不図見ると、交番所の前に立っていた巡査だ、巡査は笑いながら「一体今何をしていたのか」と訊くから、何しろこんな、出・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・旧紙幣の通用するうちに、式をあげた方がいいだろうと説き伏せると、彼も漸く納得して、二月の末日、やっと式ということになった。 仲人の私は花嫁側と一緒に式場で待っていたが、約束の時間が二時間たっても、彼は顔を見せない。 私はしびれを切ら・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・頗る背高で、大の男四人の肩に担がれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い疎髯、それから漸く頭が見えるのだ。「看護長殿!」 と小声に云うと、「何か?」 と少し屈懸るようにする。「軍医殿は何と云わ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・利尿剤の水薬を呑み出してから、顔と手の浮腫は漸く退いてゆきましたが、脚がはれ出しました。医師が見える度に問答が始まります。「先生、あなたは暖かくなれば楽になると言われましたが本当ですか。脚が腫れたらもう駄目ではないのでしょうか」「い・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・会は非常な盛会で、中には伯爵家の令嬢なども見えていましたが夜の十時頃漸く散会になり僕はホテルから芝山内の少女の宅まで、月が佳いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行って来ると、途々母は口を極めて洋行夫婦を褒め頻と羨ましそうなことを言・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫