・・・すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽窃した。「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の・・・ 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。 下人は、頸をちぢめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・ 月、星を左右の幕に、祭壇を背にして、詩経、史記、二十一史、十三経注疏なんど本箱がずらりと並んだ、手習机を前に、ずしりと一杯に、座蒲団に坐って、蔽のかかった火桶を引寄せ、顔を見て、ふとった頬でニタニタと笑いながら、長閑に煙草を吸ったあと・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
引越しをするごとに、「雀はどうしたろう。」もう八十幾つで、耳が遠かった。――その耳を熟と澄ますようにして、目をうっとりと空を視めて、火桶にちょこんと小さくいて、「雀はどうしたろうの。」引越しをするごとに、祖母のそう呟いたこ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・夜具は申すまでもなく、絹布の上、枕頭の火桶へ湯沸を掛けて、茶盆をそれへ、煙草盆に火を生ける、手当が行届くのでありまする。 あまりの上首尾、小宮山は空可恐しく思っております。女は慇懃に手を突いて、「それでは、お緩り御寝みなさいまし、ま・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 玄関の六畳の間にランプが一つ釣るしてあって、火桶が三つ四つ出してある、その周囲は二人三人ずつ寄っていて笑うやらののしるやら、煙草の煙がぼうッと立ちこめていた。 今井の叔父さんがみんなの中でも一番声が大きい、一番元気がある、一番おも・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ている人民の地、文化は勝れ、学問諸芸遊伎等までも秀でている地の、其の堺の大小路を南へ、南の荘の立派な屋並の中の、分けても立派な堂々たる家、納屋衆の中でも頭株の嚥脂屋の奥の、内庭を前にした美しい小室に、火桶を右にして暖かげに又安泰に坐り込んで・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・殿上に桐火桶を撫し簾を隔てて世俗に対したのでは俳人芭蕉は大成されなかったに相違ない。連歌と俳諧の分水嶺に立った宗祇がまた行脚の人であったことも意味の深い事実である。芭蕉の行脚の掟はそっくりそのままに人生行路の掟である。僧心敬が「ただ数奇と道・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・の語をやめて代りに「火桶」の形容詞など置くべく、結句は「火桶すわりをる」のごとき句法を用うるか、または「○○すわりをる」「すわり○○をる」のごとく結びて「哉」を除くべし。かつふれて巌の角に怒りたるおとなひすごき山の滝つせ こ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・はれぬ侘禅師乾鮭に白頭の吟を彫五七六調、五八六調、六七六調、六八六調等にて終六言を夕立や筆も乾かず一千言ほうたんやしろかねの猫こかねの蝶心太さかしまに銀河三千尺炭団法師火桶の穴より覗ひけりのごとく置き・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫