・・・その大切な乳をかくす古手拭は、膚に合った綺麗好きで、腰のも一所に、ただ洗いただ洗いするんですから、油旱の炎熱で、銀粉のようににじむ汗に、ちらちらと紗のように靡きました。これなら干ぼしになったら、すぐ羽にかわって欄間を飛ぶだろうと思ったほどで・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗の花も、夏になるとすぐ咲い・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・細民街のぼろアパアト、黄塵白日、子らの喧噪、バケツの水もたちまちぬるむ炎熱、そのアパアトに、気の毒なヘロインが、堪えがたい焦躁に、身も世もあらず、もだえ、のたうちまわっているのである。隣の部屋からキンキン早すぎる回転の安蓄音器が、きしりわめ・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・おりからの炎熱とともに、ただならぬ悪臭を放つようになった。こんどは家内が、まいってしまった。「ご近所にわるいわ。殺してください」女は、こうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。「殺すのか」私は、ぎょっとした。「もう少しの我慢じゃないか」・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・あの日、三伏の炎熱、神もまたオリンピック模様の浴衣いちまい、腕まくりのお姿でござった。」聞くもの大笑せぬはなく、意外、望外の拍手、大喝采。ああ、かの壇上の青黒き皮膚、痩狗そのままに、くちばし突出、身の丈ひょろひょろと六尺にちかき、かたち老い・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ 甲府へ来たのは、四月の、まだ薄ら寒い頃で、桜も東京よりかなりおくれ、やっとちらほら咲きはじめたばかりであったが、それから、五月、六月、そろそろ盆地特有のあの炎熱がやって来て、石榴の濃緑の葉が油光りして、そうしてその真紅の花が烈日を受け・・・ 太宰治 「薄明」
・・・ やがて我に還ると、私は、執拗にとう見、こう見、素晴らしい午後の風景を眺めなおしながら、一体どんな言葉でこの端厳さ、雄大な炎熱の美が表現されるだろうかと思い惑う。惑えば惑うほど、心は歓喜で一杯になる。 ――もう一つ、ここの特徴で・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・それは、インドにおける彼女の影響が最高潮にあったとき、ナイチンゲールがクリミヤの経験をどこまでも固執して、炎熱の激しいインドの病院でも、病室の窓々は開放されていなければならないと強硬に主張したために大恐慌を来したという事実である。「彼女の生・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
・・・彼の苦しそうな顔を見たのは、湿りのない炎熱の日が一月以上も続いた後であった。しかしその叫び声やしおれた顔も、その機会さえ過ぎれば、すぐに元の快活に帰って苦しみの痕をめったにあとへ残さない。しかも彼らは、我々の眼に秘められた地下の営みを、一日・・・ 和辻哲郎 「樹の根」
・・・そうして芸術的労力そのものが先生の心を満足させた。炎熱の烈しかったこの暑中も、毎日『明暗』を書きつづけながら、製作の活動それ自身を非常に愉快に感じていた。そのため生理的にも今までになく快適を感じていたらしかった。 先生が製作によって生の・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫