・・・けれども、今夜は全くの無風なので、焔は思うさま伸び伸びと天に舞いあがり立ちのぼり、めらめら燃える焔のけはいが、ここまではっきり聞えるようで、ふるえるほどに壮観であった。ふと見ると、月夜で、富士がほのかに見えて、気のせいか、富士も焔に照らされ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・ そうじゃない。無風。カットグラス。白骨。そんな工合いの冴え冴えした解決だ。いや、そうじゃない。どんな形容詞もない、ただの、『解決』だ。そんな小説はたしかにある。けれども人は、ひとたびこの小説を企てたその日から、みるみる痩せおとろえ、はては・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 夕なぎというのは昼間の海風から夜間の陸風に移り変わる中間に、一時無風の状態を経過する、その時をさして言うのである。従って夕なぎが完全に行なわれるためには、低気圧による風や、また季節風のごときが邪魔をしない事が必要条件である。 夏期・・・ 寺田寅彦 「海陸風と夕なぎ」
・・・当時ほとんど無風で、少なくも人間に感じるような空気の微動はなかったので、ことによるととんぼはあの大きな目玉を夕日に照りつけられるのがいやで反対のほうに向いているのではないかとも思われた。 試みに近い範囲の電線に止まっている三十五匹のとん・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・ そういうある日の快晴無風の午後の青空の影響を受けたものか、近頃かつて経験したことのないほど自由な解放された心持になって、あてもなく日本橋の附近をぶらぶら歩いているうちに、ふと昨日人から聞いた明治座の喜劇の話を想い出してちょっと行って覗・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・この雲の上には実に東京ではめったに見られない紺青の秋の空が澄み切って、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭に輝いているのであった。そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんとして実に静寂な感じがしたのであった。 夕方藤・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・午後の海軟風が衰えてやがて無風状態になると、気温は実際下がり始めていても人の感じる暑さは次第に増して来る。空気がゼラチンか何かのように凝固したという気がする。その凝固した空気の中から絞り出されるように油蝉の声が降りそそぐ。そのくせ世間が一体・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
・・・寒い曇天無風の夜九段坂上から下町を見るといわゆるロンドンフォッグを思わせるものがある。これも市民のモーラルを支配しないわけにはゆかないであろう。 五 上野のデパートメントストアの前を通ったら広小路側の舗道に幕を張・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
・・・「黒、褐、黄、灰、白、無色。それからこれらの混合です。」 大博士はわらいました。「無色のけむりはたいへんいい。形について言いたまえ。」「無風で煙が相当あれば、たての棒にもなりますが、さきはだんだんひろがります。雲の非常に低い・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ 不安な、ソヴェト文学の無風状態が来た。作家の或るもの、例えばイワーノフなどは革命当時の活力と火花のようなテンポを失い、無気力でいやに念入りな、個人的な心理主義的作風に陥って行ったのである。 これは危い時代であった。質のよい、若いプ・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
出典:青空文庫