・・・とキリストがいったように、思想そのものは実は「思い煩い」であり、袋路である。はてしなき迷路である。知識階級とは、この意味においては、永遠の懐疑の階級なのである。立命のためには知性そのものを超克しなくてはならぬ。知性を否定して端的に啓示そのも・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ 処女は処女としての憧憬と悩みのままに、妻や、母は家庭や、育児の務めや、煩いの中に、職業婦人は生活の分裂と塵労とのうちに、生活を噛みしめ、耐え忍びよりよきを望みつつ、信仰を求めて行くべきである。 信仰を求める誠さえ失わないならば、ど・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・豚を放てば自分の畠を荒される患いがあった。いゝ豚がよその悪い種と換るのも惜しい。それに彼は、いくらか小金を溜めて、一割五分の利子で村の誰れ彼れに貸付けたりしていた。ついすると、小作料を差押えるにもそれが無いかも知れない小作人とは、彼は類を異・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・殿「誠に久しく会わんのう」七「へえ」殿「再度書面を遣ったに出て来んのは何ういうわけか」七「へえ」殿「他へでも往ったか」七「へえ」殿「煩いでもしたか」七「へえ」殿「然うでもないようだな」七「へえ」殿・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・に生れた時から弱く小さく、また母乳不足のためにその後の発育も思わしくなくて、ただもう生きて動いているだけという感じで、また上の五歳の女の子は、からだは割合丈夫でしたが、甲府で罹災する少し前から結膜炎を患い、空襲当時はまったく眼が見えなくなっ・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・それに、電話がすぐそばにあるので、間断なしに鳴ってくる電鈴が実に煩い。先生、お茶の水から外濠線に乗り換えて錦町三丁目の角まで来ておりると、楽しかった空想はすっかり覚めてしまったような侘しい気がして、編集長とその陰気な机とがすぐ眼に浮かぶ。今・・・ 田山花袋 「少女病」
去年の夏信州沓掛駅に近い湯川の上流に沿うた谷あいの星野温泉に前後二回合わせて二週間ばかりを全く日常生活の煩いから免れて閑静に暮らしたのが、健康にも精神にも目に見えてよい効果があったように思われるので、ことしの夏も奮発して出・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・今更らしく死んだ人を悲しむのでもなく妹の不幸を女々しく悔やむのでもないが、朝に晩に絶間のない煩いに追われて固く乾いた胸の中が今日の小春の日影に解けて流れるように、何という意味のない悲哀の影がゆるんだ平一の心の奥底に動くのであった。 宅へ・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・私がもし古美術の研究家というような道楽をでももっていたら、煩いほど残存している寺々の建築や、そこにしまわれてある絵画や彫刻によって、どれだけ慰められ、得をしたかしれなかったが――もちろん私もそういう趣味はないことはないので、それらの宝蔵を瞥・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ わたくしは人に道をきく煩いもなく、構内の水溜りをまたぎまたぎ灯の下をくぐると、家と亜鉛の羽目とに挟まれた三尺幅くらいの路地で、右手はすぐ行止りであるが、左手の方に行くこと十歩ならずして、幅一、二間もあろうかと思われる溝にかけた橋の上に・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
出典:青空文庫