・・・泊っている荷舟の苫屋根が往来よりも高く持上って、物を煮る青い煙が風のない空中へと真直に立昇っている。鯉口半纏に向鉢巻の女房が舷から子供のおかわを洗っている。橋の向角には「かしぶね」とした真白な新しい行燈と葭簀を片寄せた店先の障子が見え、石垣・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・且又炎暑の時節には火をおこして物を煮る気にもなれない。まずいのを忍んで飲食店の料理を食うのが或時には便宜である。これが僕をして遂にカッフェーの客たらしめた理由の一である。 僕は築地の路地裏から現在の家に琴書を移し運んでより此の方、袖の長・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを蘇してか」と父は話し半ばに我句を投げ入るる。「よみ返しはしたれ。よみにある人と択ぶ所はあらず。われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。魔に襲われて夢に物いう人の如・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」「いいえ」「知らない?」「知りまっせん」「どうも辟易だな」「何でござりまっす」「何でもいいから、玉子を持って御出。それから、おい、ちょっと待った。君ビールを飲むか・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・出る杭を打たうとしたりや柳かな酒を煮る家の女房ちょとほれた絵団扇のそれも清十郎にお夏かな蚊帳の内に螢放してアヽ楽や杜若べたりと鳶のたれてける薬喰隣の亭主箸持参化さうな傘かす寺の時雨かな 後世一茶の俗語・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・おかあさんは馬にやるを煮るかまどに木を入れながらききました。「うん。又三郎は飛んでったがもしれないもや。」「又三郎って何だてや。鳥こだてが。」「うん。又三郎っていうやづよ。」一郎は急いでごはんをしまうと、椀をこちこち洗って、それ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ 麦を煮る、わらを切る、草をかう○前の田を寺からかりて試作する。肥料の。「あの肥料をつかってこないよう出来たと見せようちゅうところの」 苅ったところで達治とキャッチボール○多賀さんの山 が右手 寺の山 左手 むこう・・・ 宮本百合子 「Sketches for details Shima」
・・・この家では茶を煮るときは、名物の鶴の子より旨いというので、焼芋を買わせる。常磐橋の辻から、京町へ曲がる角に釜を据えて、手拭を被った爺いさんが、「ほっこり、ほっこり、焼立ほっこり」と呼んで売っているのである。酒は自分では飲まないが、心易い友達・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫