・・・彼の風貌を未だにはっきりと覚えている。「そりゃ君、善は美よりも重大だね。僕には何と云っても重大だね。」――善は実に彼にとっては、美よりも重大なものであった。彼の爾後の作家生涯は、その善を探求すべき労作だったと称しても好い。この道徳的意識に根・・・ 芥川竜之介 「「菊池寛全集」の序」
・・・ 伊能忠敬は五十歳から当時三十余歳の高橋左(衛門の門に入って測量の学を修め、七十歳を超えて、日本全国の測量地図を完成した、趙州和尚は、六十歳から參禅修業を始め、二十年を経て漸く大悟徹底し、爾後四十年間、衆生を化度した、釈尊も八十歳までの・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ 中津藩はすでにこの偶然の僥倖に由て維新の際に諸藩普通の禍を免かれ、爾後また重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・ しからばすなわち、爾後日本国内において、事物の順序を弁じ、一身の徳を脩め、家族の間を睦じくせしむる者も、この子女ならん。世の風俗を美にして、政府の法を行われ易からしむる者も、この子女ならん。工を勤め商を勧め、世間一般の富をいたすものも・・・ 福沢諭吉 「京都学校の記」
・・・我が王朝文弱の時代にその風を成し、玉の盃底なきが如しなどの語は、今に至るまで人口に膾炙する所にして、爾後武家の世にあっては、戸外兵馬の事に忙わしくして内を修むるに遑なく、下って徳川の治世に儒教大いに興りたれども、支那の流儀にして内行の正邪は・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・によって後者の庶民的生活力には結びつかず、象徴派のマラルメやアンリ・ド・レニエなどと相識り、爾後四五年間はその温室の中にあって、間接に『法螺貝』、『半人獣』などという雑誌編輯に当り、グループの「最も光彩陸離たる聖職者の一人」となった。 ・・・ 宮本百合子 「ジイドとそのソヴェト旅行記」
・・・ 金子しげり、市川房枝などの運動と並行して昭和二年ごろ無産派婦人政治運動促進会というものができ、全国婦人同盟が組織され、その流れは爾後七八年間種々転変しつつ、日本の勤労的な生活にある婦人層の広汎な政治的成長のために尽瘁しつづけた。明治の・・・ 宮本百合子 「女性の歴史の七十四年」
出典:青空文庫