これは狐か狸だろう、矢張、俳優だが、数年以前のこと、今の沢村宗十郎氏の門弟で某という男が、或夏の晩他所からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく馬道の通りを急いでやって来て、さて聖天下の今戸橋のところま・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・思い切って靴を脱ぎ、片手にぶら下げて、地下道の旅行調整所の前にうずくまって夜明しをしている旅行者の群へ寄って行き、靴はいらんか百円々々と呶鳴ると、これも廉いのかすぐ売れた、十円札にくずして貰い、飾窓へ戻り二晩分十円先払いして、硝子の中で寝た・・・ 織田作之助 「世相」
ある午後「高いとこの眺めは、アアッ(と咳また格段でごわすな」 片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持っている。頭が奇麗に禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓をはめたように見える。――そんな老・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・堂の闥を押さんとする時何心なく振り向けば十蔵はわが外套を肩にかけ片手にランプを持ちて事務室の前に立ちこなたをながめいたり。この時われかの貧しき少女が狂犬のうわさせしといいし片目の十蔵を憶い起こしぬ。十蔵はわが振り向きしを見て急にランプの火を・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 右手向うの小高い丘の上から、銃を片手に提げ、片手に剣鞘を握って、斥候が馳せ下りて来た。彼は、銃が重くって、手が伸びているようだった。そして、雪の上にそれを引きずりながら、馳せていた。松木だった。 彼は、息を切らし、中隊長の傍まで来・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・になっているところ一体に桑が仕付けてあるその遥に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙でも媚き立つ年頃だけに紅いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装をして、小籃を片手に、節こそ鄙びてはおれど清らかな高い徹る声で、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ N駅に出る狭い道を曲がった時、自動車の前を毎朝めしを食いに行っていた食堂のおかみさんが、片手に葱の束を持って、子供をあやしながら横切って行くのを見付けた。 前に、俺はそこの食堂で「金属」の仕事をしていた女の人と十五銭のめしを食って・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・あるだけは残らず拾ったけれどやっと、片手に充ちるほどしかない。 下りてみると章坊が淋しそうに山羊の檻を覗いて立っている。「兄さんどこへ行ったの」と聞く。「おい、貝殻をやろうか章坊」というと、素気なくいらないと言う。私は不・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・林檎の皮をむかせても、むきながら何を考えているのか、二度も三度も手を休めて、おい、とその度毎にきびしく声を掛けてやらないと、片手に林檎、片手にナイフを持ったまま、いつまでも、ぼんやりしているのだ。足りないのではないか、と思われた。台所で、何・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・ 園内の渓谷に渡した釣り橋を渡って行くとき向こうから来た浴衣姿の青年の片手にさげていたのも、どうもやはり「千曲川のスケッチ」らしい。絵日傘をさした田舎くさいドイツ人夫婦が恐ろしくおおぜいの子供をつれて谷を見おろしていた。 動物園があ・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
出典:青空文庫