・・・ するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、「お前は何を考えているのだ」と、横柄に声をかけました。「私ですか。私は今夜寝・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・そのかき根について、ここらには珍しいコスモスが紅や白の花をつけたのに、片目のつぶれた黒犬がものうそうにその下に寝ころんでいた。その中で一軒門口の往来へむいた家があった。外の光になれた私の眼には家の中は暗くて何も見えなかったが、その明るい縁さ・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・この応用化学の大学教授は大きい中折れ鞄を抱え、片目だけまっ赤に血を流していた。「どうした、君の目は?」「これか? これは唯の結膜炎さ」 僕はふと十四五年以来、いつも親和力を感じる度に僕の目も彼の目のように結膜炎を起すのを思い出し・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・骨組の逞ましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目眇で、その眇の方をト上へ向けて渋のついた薄毛の円髷を斜向に、頤を引曲げるようにして、嫁御が俯向けの島田からはじめて、室内を白目沢山で、虻の飛ぶように、じろじろと飛廻しにみま・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・そして、いつも皇子は、黒のシルクハットをかぶり、燕尾服を着ておいでになります。そして片目なので、黒の眼鏡をかけておいでになるということです。」と申しあげました。 お姫さまは、これを聞くと、前の家来の申したこととたいそう違っていますので、・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・されど片目の十蔵がかく語りしものを痛きことかなと妹は眼をみはり口とがらせ耳をおおいて叫びぬ。たちまち姉は優しく妹の耳に口寄せて何事かささやきしが、その手をとりて引き立つれば妹はわれを見て笑みつ、さて二人は唄うこともとのごとくにしてかなたに去・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・時計屋が使うような片目の覗き眼鏡にぴったり顔をおっつけ、右手でその眼鏡の下のものをいじっているところだが、ヴォルフはカメラをその顔や手の、下の方から向けた。 皺のある大きい老職工の顔のかぶさった肉体的な全容積と頑固な形をしているくせにそ・・・ 宮本百合子 「ヴォルフの世界」
・・・、これを最後の機会として、これまで民衆の精神にほどこしていた目隠しの布が落ちきらぬうち、せいぜい開かれた民衆の視線がまだ事象の一部分しか瞥見していないうち、なんとかして自身の足場を他にうつし、あるいは片目だけ開いた人間の大群衆を、処置に便宜・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・真四角な石造で、窓が高く小さく只一つの片目のようについて居る、気味が悪いと見た人が申しました。何でございましょう。此間、頂上まで登って見たいと思って切角出かけたのに途中で駄目になって仕舞いました。平地の健脚は、決して石ころの山道で同様の威厳・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 伊豆湯ヶ島 一九二五年十二月二十七日より 修善寺駅 茶屋の女出たら目の名、荷物のうばい合い、 犬、片目つぶれて創面になって居た、思わず自分、あっと云う。 Y、「この犬はいけない!」体が白・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
出典:青空文庫