・・・ という意味のことをボードレエルが言っているが、私たちはこの意味でのダンデイになることが、さしあたって狂人にならないための第一条件ではあるまいか。 それほど見るもの聴くものが、驚嘆すべきことばかりなのだ。しかも、驚嘆すべきことが、応・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・ヴァイオリンのことになると、まるで狂人のようになってしまう父親であった。だから、寿子は祭に行きたいと駄々をこねることも出来ず、毛穴という毛穴から汗を吹きだしながら、ちいさな手に力をこめて、弾いていた。額の汗が眼にはいるので、眼を閉じ、歯をく・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・裘のようなものは、反対に、緊迫衣のように私を圧迫した。狂人のような悶えでそれを引き裂き、私を殺すであろう酷寒のなかの自由をひたすらに私は欲した。 こうした感情は日光浴の際身体の受ける生理的な変化――旺んになって来る血行や、それにしたがっ・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ 其後同君の文を余り目にしませんでしたが、近く「二狂人」や「ふさぎの虫」等の翻訳、其から色色の作を見まして漸く文壇の為に働かるる事の多くなって来たのを感じて居りました中、突として逝去の報に接したのは何だか夢のように思えてなりません。近来・・・ 幸田露伴 「言語体の文章と浮雲」
・・・それで上に残った者は狂人の如く興奮し、死人の如く絶望し、手足も動かせぬようになったけれども、さてあるべきではありませぬから、自分たちも今度は滑って死ぬばかりか、不測の運命に臨んでいる身と思いながら段下りてまいりまして、そうして漸く午後の六時・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるりと廻って、戸棚の前へぴたりと坐ったり何か変なことをいたし、まるで狂人じみて居ります。ちょうど歳暮のことで、内儀「旦那え/\」七「えゝ」内儀「・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・おげんはあの牢獄も同様な場所に身を置くということよりも、狂人の多勢居るところへ行って本物のキ印を見ることを恐れた。午後に、熊吉は小石川方面から戻って来た。果して、弟は小間物屋の二階座敷におげんと差向いで、養生園というところへ行ってきたことを・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・私は、おもむろに、かの同行の書生に向い、この山椒魚の有難さを説いて聞かせようと思ったとたんに、かの書生は突如狂人の如く笑い出しましたので、私は実に不愉快になり、説明を中止して匆々に帰宅いたしたのでございます。きょうは皆様に、まずこの山椒魚の・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・人の噂に依れば、私は完全に狂人だったのである。しかも、生れたときからの狂人だったのである。それを知って、私は爾来、唖になった。人と逢いたくなくなった。何も言いたくなくなった。何を人から言われても、外面ただ、にこにこ笑っていることにしたのであ・・・ 太宰治 「鴎」
・・・「狂人の文学」はわれわれの文学では有り得ないであろう。それは狂人の思惟の方則と論理に従って動いているからである。それらの方則はもはやなんらの普遍性を持たない。これがおそらくまた逆に狂人というものを定義する一つの箇条であろう。 科学と・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
出典:青空文庫