・・・インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも宜い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流である。誰がその潮流を導いたか。とりもなおさず我先覚の諸・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・しかもただ一歩で、すぐ捉へることができるやうに、虚偽の影法師で欺きながら、結局あの恐ろしい狂気が棲む超人の森の中へ、読者を魔術しながら導いて行く。 ニイチェを理解することは、何よりも先づ、彼の文学を「感情する」ことである。すべての詩の理・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・さもなければ狂気したのだ。私自身の宇宙が、意識のバランスを失って崩壊したのだ。 私は自分が怖くなった。或る恐ろしい最後の破滅が、すぐ近い所まで、自分に迫って来るのを強く感じた。戦慄が闇を走った。だが次の瞬間、私は意識を回復した。静かに心・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・、しきりに新奇を好み、山村水落に女子英語学校ありて、生徒の数、常に幾十人ありなどいえるは毎度伝聞するところにして、世の愚人はこれをもって教育の隆盛を卜することならんといえども、我が輩は単にこれを評して狂気の沙汰とするの外なし。三度の食事も覚・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ するとてぐす飼いの男は、狂気のようになって、ブドリたちをしかりとばして、その繭を籠に集めさせました。それをこんどは片っぱしから鍋に入れてぐらぐら煮て、手で車をまわしながら糸をとりました。夜も昼もがらがらがらがら三つの糸車をまわして糸を・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ ポプラーは狂気のように頭を振り、秋の葉を撒きちらす。松や杉は落付いているのに恐ろしい灰色雲の下で竹がざわめくこと――このような天候の時、一人ぼっちでこの近傍によくある深い細道ばかりの竹藪を通ったら、どんなに神経が動乱するだろう。ドーッと風・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
みなさん! 八十日間の検束の後自由を奪いかえして来た第一の挨拶を送ります。去る三月下旬以来、ファッショ化した帝国主義日本の官憲が狂気のような暴圧を日本プロレタリア文化連盟とその参加団体に加えつつあることはみなさん御承知・・・ 宮本百合子 「逆襲をもって私は戦います」
・・・香は失せ色は褪せてほとんど狂気になるばかりであった。彼女は己が踏む道の上にあって、十字架を負った人のように烈しくあえいだ。今にも倒れそうな危うい歩きようである。 風聞が伝わった。「彼女病めり。」 彼女はこの時より一層高いある者を慕い・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・却説去廿七日の出来事は実に驚愕恐懼の至に不堪、就ては甚だ狂気浸みたる話に候へ共、年明候へば上京致し心許りの警衛仕度思ひ立ち候が、汝、困る様之事も無之候か、何れ上京致し候はば街頭にて宣伝等も可致候間、早速返報有之度候。新年言志・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫