・・・ 横井はやはり警官振った口調で、彼の現在の職業とか収入とかいろ/\なことを訊いた。「君はやはり巡査かい?」 彼はそうした自分のことを細かく訊かれるのを避けるつもりで、先刻から気にしていたことを口に出した。「馬鹿云え……」横井・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・月光に洗われたべンガル湾が見える。現在眼の前の海なんてものはそれに比べたらラフな素材にしか過ぎない。ただ地図を見てではこんな空想は浮かばないから、必要欠くべからざるという功績だけはあるが……多分そんな趣旨だったね。ご高説だったが……「―・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」「人・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・天理の自然、生命の法則に従うことは、目前の生活解放権利拡張ということより根本的である。現在の社会ではいわゆる婦人の権利拡張の闘争から手を引くことは、一層鎖を重くすることになるが、理想的国家では、処女性、母性、美容の保護、ならびに、これと矛盾・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・が、それでも、百姓の生活が現在のまゝではどうしても楽にならないことを知っている。経験から知っているのだろう。自作農は、直接地主から搾取されることはない。併し誰れかから間接に搾取されている。昔は、いまだ少しはましだった。併し、近頃になるに従っ・・・ 黒島伝治 「小豆島」
・・・短く束ねて、町人風の身づくりはしたれど更に似合わしからず、脇差一本指したる体、何とも合点が行かず、痩せて居れども強そうに、今は貧相なれども前には人の上に立てるかとも思われ、盗賊の道の附入りということを現在には為したのなれど、癇癖強くて正しく・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ただに死を恐怖しないのみでなく、あるいは恋のために、あるいは名のために、あるいは仁義のために、あるいは自由のために、さては現在の苦痛からのがれんがために、死に向かって猛進する者すらあるではないか。 死は、古からいたましいもの、かなしいも・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・自分の過去現在の行為を振りかえって見ると、一歩もその外に出てはいない。それでもって、決して普通道徳が最好最上のものだとは信じ得ない。ある部分は道理だとも思うが、ある部分は明らかに他人の死殻の中へ活きた人の血を盛ろうとする不法の所為だと思う。・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・藤さんは現在どこでどうしていてもかまわぬ。自分の藤さんは袂の中の藤さんである。藤さんはいつでもありありとこの中に見ることができる。 千鳥千鳥とよくいうのは、その紋羽二重の紋柄である。・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ それに就いて、私は答える。「それは、当りまえだ。僕は、二、三の悪いことをしたから、この記念写真にはいる資格がないのだ。それは、当りまえだ。僕には、とても、その資格がないのだ。」 現在は、私もまだ、こんな工合いで、私の家の人たち・・・ 太宰治 「花燭」
出典:青空文庫