・・・それに生れて辛っと五月ばかしの赤子さんを、懐裏に確と抱締めて御居でなのでした。此様女の人は、多勢の中ですもの、幾人もあったでしょうが、其赤さんを懐いて御居での方が、妙に私の心を動かしたのでした。『美子さん、早く入ッしゃいよ。あら、はぐれ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・或は男子は分家して一戸の主人となることあるゆえ女子に異なりと言わんかなれども、女子ばかり多く生れたる家にては、其内の一人を家に置き之に壻養子して本家を相続せしめ、其外の姉妹にも同様壻養子して家を分つこと世間に其例甚だ多し。左れば子に対して親・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・何だかこの往来、この建物の周囲には、この世に生れてから味わずにしまった愉快や、泣かずに済んだ涙や、意味のないあこがれや、当の知れぬ恋なぞが、靄のようになって立ち籠めているようだ。何処の家でも今燈火を点けている。そうすると狭い壁と壁との間に迷・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・伏屋のうちに、竹生いでて長うのびたりけるをそのままにしおきて壁くぐる竹に肩する窓のうちみじろくたびにかれもえだ振る膝いるるばかりもあらぬ草屋を竹にとられて身をすぼめをり 明治に生れたる我らはかくまで貧しくなられ得べく・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ ことしは千人の黄金色の子どもが生まれたのです。 そしてきょうこそ子どもらがみんないっしょに旅にたつのです。おかあさんはそれをあんまり悲しんでおうぎ形の黄金の髪の毛をきのうまでにみんな落としてしまいました。「ね、あたしどんなとこ・・・ 宮沢賢治 「いちょうの実」
・・・それがどんなに傷つき不具となっていようとも其故にこそ、ひとしお懐しい生れ故郷である日本を見離しがたく思っている。 その心持を誠意のこもった現実の力として表現しようとするとき私たちは、一つの救国運動として故国に対する人民の愛と必要に立つ統・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・弟には忠利が三斎の三男に生まれたので、四男中務大輔立孝、五男刑部興孝、六男長岡式部寄之の三人がある。妹には稲葉一通に嫁した多羅姫、烏丸中納言光賢に嫁した万姫がある。この万姫の腹に生まれた禰々姫が忠利の嫡子光尚の奥方になって来るのである。目上・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・もう一月で子供が生れることになっていたからである。 ツァウォツキイは無縁墓に埋められたのである。ところがそこには葬いの日の晩までしかいなかった。警察の事に明るい人は誰も知っているだろうが、毎晩市の仮拘留場の前に緑色に塗った馬車が来て、巡・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ このごろのならいとてこの二人が歩行く内にもあたりへ心を配る様子はなかなか泰平の世に生まれた人に想像されないほどであッて、茅萱の音や狐の声に耳を側たてるのは愚かなこと,すこしでも人が踏んだような痕の見える草の間などをば軽々しく歩行かない・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・この態度から生れて来る創作というものは、その結果からにちがいはないとしても、創作をするという動作は、たしかに本業ではなくて副業である。創作することが副業であるなら、滅びようと滅びまいと、何かそこには覚悟が自ら生じていくにちがいないのである。・・・ 横光利一 「作家の生活」
出典:青空文庫