・・・「なあにね、今日は不漁で店が閑だから、こんな時でなけりゃゆっくり用足しにも出られないって」「へ! 何の用足しだか知れたものじゃねえ、こう三公、いいことを手前に訓えてやらあ、今度お上さんが出かけるだったらな、どうもお楽しみでございます・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ ところが、ある年の暮、いよいよ押し詰まって来たのにかかわらず、蔵元町人の平野屋ではなんのかんのと言って、一向に用達してくれない。年内に江戸表へ送金せねば、家中一同年も越せぬというありさま故、満右衛門はほとほと困って、平野屋の手代へ、品・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・煙草屋へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋へも五六町はあって、どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 夕方に、熊吉が用達から帰って来るまで、おげんは心の昂奮を沈めようとして、縁先から空の見える柱のところへ行って立ったり、庭の隅にある暗い山茶花の下を歩いて見たりした。年老いた身の寄せ場所もないような冷たく傷ましい心持が、親戚の厄介物とし・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を移した。用達することがあって、銀座の通へ出た頃は、実に体躯が暢々とした。腰の痛いことも忘れた。いかに自由で、いかに手足の言うことを利くような日が、復た廻り廻って来たろう。すこ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・きょうは用達に行くんだからね。」「じゃ、わたしは袴にしましょう。」 私と末子とがしたくをしていると、次郎は朝から仕事着兼帯のような背広服で、自分で着かえる世話もなかったものだから、そこに足を投げ出しながらいろいろなことを言った。・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ しかして鳩は、この奥さんがこれから用足しに行く「日の村」へと飛んで行きました。 そのうちに午後になりましたから、このかわいい奥さんは腕に手かごをかけて、子どもの手を引いて出かける用意をしました。奥さんはまだ一度もその村に行った事は・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・母が末の子を背負って、用足しに外に出かけると、父はあとの二人の子の世話を見なければならぬ。そうして、来客が毎日、きまって十人くらいずつある。「仕事部屋のほうへ、出かけたいんだけど」「これからですか?」「そう。どうしても、今夜のう・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。 歩きながら或日ふと思出したのは、ギヨーム・アポリネールの『坐せる女』と題する小説である。この小説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ しかも余は他の日本人のごとく紹介状を持って世話になりに行く宛もなく、また在留の旧知とては無論ない身の上であるから、恐々ながら一枚の地図を案内として毎日見物のためもしくは用達のため出あるかねばならなかった。無論汽車へは乗らない、馬車へも・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫