・・・しかし、客の世話や帳場の用事で動くのではなく、ただ眼に触れるものを、道具、畳、蒲団、襖、柱、廊下、その他片っ端から汚い汚いと言いながら、歯がゆいくらい几帳面に拭いたり掃いたり磨いたりして一日が暮れるのである。 目に見えるほどの塵一本見の・・・ 織田作之助 「螢」
・・・せめて降りやんでくれたらと、客を湯殿に案内したついでに帳場の窓から流川通を覗いてみて、若い女中は来年の暦を買いそこねてしまった。 毎年大晦日の晩、給金をもらってから運勢づきの暦を買いに出る。が、今夜は例年の暦屋も出ていない。雪は重く、降・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ 彼は帳場に上り込んで「実は妻が田舎に病人が出来て帰ってるもんだから、二三日置いて貰いたい」と頼んだ。が、主人は、彼等の様子の尋常で無さそうなのを看て取って、暑中休暇で室も明いてるだろうのに、空間が無いと云ってきっぱりと断った。併しもう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そりゃ兄さんが一人で二階で飲んでる分にはちっともかまいませんが、私もお相伴をして、毎日飲んでるとなっては、帳場の手前にしてもよくありませんからね」 これが惣治の最も怖れたことであった。「……そりゃそうとも、僕も今度はまったく禁酒のつ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・燦爛かなる扮装と見事なる髭とは、帳場より亭主を飛び出さして、恭しき辞儀の下より最も眺望に富みたるこの離座敷に通されぬ。三十前後の顔はそれよりも更けたるが、鋭き眼の中に言われぬ愛敬のあるを、客擦れたる婢の一人は見つけ出して口々に友の弄りものと・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ ある年の五月半ばごろである。帳場にすわっておる番頭の一人が通りがかりの女中を呼んで、「お清さん、これを大森さんのとこへ持っていって、このかたが先ほど見えましたがお留守だと言って断わりましたって……」と一枚の小形の名刺を渡した。・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・旦那さんはそんなことまでなさらなくてもようござんす。手はいくらもあります。旦那さんは帳場の前に腰掛けていて下さればいい方です」 とお力は言って、新七の手から布巾を奪い取るようにした。 魚河岸の方へ行った連中が帰って来てからは、料理場・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・また、晩ごはんのときには、ひとり、ひとりお膳に向って坐り、祖母、母、長兄、次兄、三兄、私という順序に並び、向う側は、帳場さん、嫂、姉たちが並んで、長兄と次兄は、夏、どんなに暑いときでも日本酒を固執し、二人とも、その傍に大型のタオルを用意させ・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・兄は、落ちつき払って、卓上電話を取り上げ、帳場に、自動車を言いつけた。私は、しめた、と思った。 兄は、けれども少しも笑わずに顔をそむけ、立ち上ってドテラを脱ぎ、ひとりで外出の仕度をはじめた。「街へ出て見よう。」「はあ。」ずるい弟・・・ 太宰治 「一燈」
・・・乗合馬車の中で女教員らしい女の読んでいるのを見たこともあれば、こんな旅館にと思われるような帳場に放り出されてあるのを見たことがあった。「中田の遊廓に行ったなんて、うそだそうですよ。小説家なんて、ひどいことを書くもんですね」 こういう言葉も私・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
出典:青空文庫