・・・私はその姿を見るが早いか、素早く幌の下へ身を投じて、車夫が梶棒を上げる刹那の間も、異様な興奮に動かされながら、『あいつだ。』と呟かずにはいられませんでした。あいつと云うのは別人でもない、三浦の細君の従弟と称する、あの色の浅黒い縞の背広だった・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・若い女の声がなんだか異様に聞えるのである。 フレンチは水落を圧されるような心持がする。それで息遣がせつなくなって、神経が刺戟せられる。「うん。すぐだ。」不機嫌な返事をして、神経の興奮を隠そうとしている。さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をな・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・宿についても飲むも食うも気が進まず、新聞を見また用意の本など出してみても、異様に神経が興奮していて、気を移すことはできなかった。見てきた牛の形が種々に頭に映じてきてどうにもしかたがない。無理に酒を一口飲んだまま寝ることにした。 七日と思・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・とは、お袋が異様な問いであった。「わたしはそんな苦労人じゃアございませんよ」と、僕の妻は顔を赤くして笑った。「そりゃア、これまでにも今度のようなことがあったし、またいろんな芸者をつれ込んで来られたこともあったから、その方では随分苦労人に・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・の両聯も、訪客に異様な眼をらした小さな板碑や五輪の塔が苔蒸してる小さな笹藪も、小庭を前にした椿岳旧棲の四畳半の画房も皆焦土となってしまった。この画房は椿岳の亡い後は寒月が禅を談じ俳諧に遊び泥画を描き人形を捻る工房となっていた。椿岳の伝統を破・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が出てしまって死ぬるのだ」というようである。 こんな事を考えている内に、女房は段々に、しかもよほど手間取って、落ち着いて来た。それと同時に草原を物狂わしく走っていた間感じていた、旨く復讐をし遂げたと・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ ふたたび目をつぶって笛を吹きますと、一人一人、異様な形をした人間が自分の身のまわりに飛び出して、笑ったり跳ねたり、話をはじめるのでした。 彼はふいに目を開きました。 そして、沖の方をながめますと、赤い船がいっそうはっきりとして・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・ 私は始終を見ていて異様に感じた。七 女房を奪われながらも、万年屋は目と鼻の間の三州屋に宿を取っている。翌日からもう商売に出るのを見かけた者がある。山本屋の前を通る時には、怨しそうに二階を見挙げて行くそうだ。私は見慣れた・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・蒲団の中からだらんと首をつきだしたじじむさい恰好で、永いことそうやっていると、ふと異様な影が鏡を横切った。蜘蛛だった。私はぎょっとした自分の顔を見た。そして思わず襖を見た。とたんに蜘蛛はぴたりと停って、襖に落した影を吸いながら、じっと息を凝・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫