・・・時々頭が痛むといっては顳へ即功紙を張っているものの今では滅多に風邪を引くこともない。突然お腹へ差込みが来るなどと大騒ぎをするかと思うと、納豆にお茶漬を三杯もかき込んで平然としている。お参りに出かける外、芝居へも寄席へも一向に行きたがらない。・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「どこか痛むかい」「豆が一面に出来て、たまらない」「困ったな。よっぽど痛いかい。僕の肩へつらまったら、どうだね。少しは歩行き好いかも知れない」「うん」と碌さんは気のない返事をしたまま動かない。「宿へついたら、僕が面白い話・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・食物の品柄次第にて、にわかにこれを喰いて腹を痛むることあり、養生法においてもっとも戒むるところなれば用心せざるべからず。あるいは物の性質により、遠慮なく喰いて害をなさざることもあり、喰いて害なくば颯々と喰うもまた可なり。ゆえに漸進急進の別は・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
時は午後八時頃、体温は卅八度五分位、腹も背も臀も皆痛む、 アッ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にして居るじゃないか、馬鹿、畜生、アッ痛、アッ痛、痛イ痛イ、寝返りしても痛いどころか、じっとして居ても痛いや。 アーアーいやにな・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・(いいえもう結構 二人はわらじを解いてそれからほこりでいっぱいになった巻脚絆をたたいて巻き俄かに痛む膝をまげるようにして下駄をもって泉に行った。泉はまるで一つの灌漑の水路のように勢よく岩の間から噴き出ていた。斉田はつくづくかがんでそ・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・鉄工場に働いたり、あるいは酸素打鋲器をあつかっている労働者、製菓会社のチョコレート乾燥場などの絶え間ない鼓膜が痛むような騒音と闘って働いている男女、独特な聴神経疲労を感じている電話交換手などにとって、ある音楽音はどういう反応をひき起すか、ど・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
・・・倒れれば刀が傷む。壁にも痍が附くかも知れないというのである。 床の間の前には、子供が手習に使うような机が据えてある。その前に毛布が畳んで敷いてある。石田は夏衣袴のままで毛布の上に胡坐を掻いた。そこへ勝手から婆あさんが出て来た。「鳥は・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・「余は胸が痛むのだ」「侍医をお呼びいたしましょうか」「いや、余は暫くお前と一緒に眠れば良い」 ナポレオンはルイザの肩に手をかけた。ルイザはナポレオンの腕から戦慄を噛み殺した力強い痙攣を感じながら、二つの鐶のひきち切れた緞帳の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・汽車に揺られて、節々が痛む上に、半分寐惚けて、停車場に降りた。ここで降りたのは自分一人である。口不精な役人が二等の待合室に連れて行ってくれた。高い硝子戸の前まで連れて来て置いて役人は行ってしまった。フィンクは肘で扉を押し開けて閾の上に立って・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・たとえ眠られぬ真夜中に、堅い腰掛けの上で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幽かな力ない嘆息が彼らの口から洩れるにしても。 私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫