・・・案の定脱衣場で見た顔だった。白粉の下に生気のない皮膚がたるんでいると、一眼にわかった。いきなり宿帳の「三十四歳」を想い出した。それより若くは見えなかった。 女はどうぞとこちらを向いて、宿の丹前の膝をかき合わせた。乾燥した窮屈な姿勢だった・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・なまめいているといえば、しかし、引っ越しの日に手伝いに来ていた玉子という見知らぬ女も、首筋だけ白粉をつけていて、そして浜子がしていたように浴衣の裾が短かく、どこかなまめいているように、子供心にも判りました。玉子はあと片づけがすんでも帰らぬと・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 猫の手で顔へ白粉を塗っているのである。私はゾッとした。しかし、なおよく見ていると、それは一種の化粧道具で、ただそれを猫と同じように使っているんだということがわかった。しかしあまりそれが不思議なので、私はうしろから尋ねずにはいられなかった。・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・暗のなかから白粉を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。 今、空は悲しいまで晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。 白堊の小学校。土蔵作りの銀行。寺の屋根。そしてそこここ、西洋菓子の間に詰めてあるカンナ屑めいて、緑・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・如何にせんとも死なめと云ひて寄る妹にかそかに白粉にほふ これは大正時代の、病篤き一貧窮青年の死線の上での恋の歌である。 私は必ずしも悲劇的にという気ではない。しかし緊張と、苦悩と、克服とのないような恋は所詮浅い、上調子な・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・花から取った香水や、肌色のスメツ白粉や、小指のさきほどの大きさが六ルーブルに価する紅は、集団農場の組織や、労働者の学校や、突撃隊の活動などとは、およそ相反するものだ。それをわざわざ持ちこんで行くのは意味がなければならなかった。社会主義的社会・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・園子は朝起ると、食事前に鏡台の前に坐って、白粉をべったり顔にぬった。そして清三の朝飯の給仕をすますと、二階の部屋に引っこもって、のらくら雑誌を見たり、何か書いたりした。が、大抵はぐてぐて寝ていた。そして五時頃、会社が引ける時分になると、急に・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・年はまだ三十前、肥り肉の薄皮だち、血色は激したために余計紅いが、白粉を透して、我邦の人では無いように美しかった。眼鼻、口耳、皆立派で、眉は少し手が入っているらしい、代りに、髪は高貴の身分の人の如くに、綰ねずに垂れている、其処が傲慢に見える。・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・その小さい引出しが開けられたままになっていたり、白粉刷毛が側に転がっていた。その時女の廊下をくる音をきいた。彼は襖をしめた。 女は安来節のようなのを小声で歌いながら、チリ紙を持って入ってきた。そしてそこにあった座布団を二つに折ると×××・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・坂橋の張飛睨んだばかりの勢いに小露は顫え上りそれから明けても三国割拠お互いに気まずく笑い声はお隣のおばさんにも下し賜わらず長火鉢の前の噛楊子ちょっと聞けば悪くないらしけれど気がついて見れば見られぬ紅脂白粉の花の裏路今までさのみでもなく思いし・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫