・・・展覧会場では、この二つの頂点の処の肝心な数コマが白紙で蔽われて「カット」されていたことからしてみると、相当に深刻な描写があって人間の隠れた本能を呼びさますものがあるものと見える。 全十二巻の詞書というものを売っていたので買ってみると、詞・・・ 寺田寅彦 「山中常盤双紙」
・・・大勢はまだ暫くがやがやとして居たが一人の手から白紙に包んだ纏頭が其かしらの婆さんの手に移された。瞽女は泊めた家への謝儀として先ず一段を唄う。そうして大勢の中の心あるものから纏頭を得て一くさり唄うのである。三味線の胴が復た膝にもどった。大勢は・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・自分はひったくるようにその手紙を取って、すぐ五、六寸破いて櫛をふこうとして見ると、細かい女の字で白紙の闇をたどるといったように、細長くひょろひょろとなにか書いてあるのに気がついた。自分はちょっと一、二行読んでみる気になった。しかしこのひょろ・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・画を専門になさる、あなた方の方から云うと、同じ白色を出すのに白紙の白さと、食卓布の白さを区別するくらいな視覚力がないと視覚の発達した今日において充分理想通りの色を表現する事ができないと同様の意義で、――文学者の方でも同性質、同傾向、同境遇、・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ やがて、彼は側の小卓子の引き出しから一枚の白紙と鉛筆をとり出した。 さほ子が小一時間の後、手を拭き拭き台所から戻って来ると、彼は黙って其紙片を出して見せた。彼女は莞爾ともしないで眼を通した。彼が新聞に出そうと思った広告の下書きであ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ L、F、H子供らしい真剣で白紙の上に私は貴方の名と自分の名とを書きました。細い桃色鉛筆で奇怪な分数を約すように同じ文字を消して行くRとR、UとU、KとKと。残った綴字はいくつあるかL、・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・その年の十二月二十日すぎの或る夜、夕刊に、宮本顕治が一年間の留置場生活から白紙のまま市ヶ谷刑務所へ移されたというニュースが出ていたと、一人の友人が知らせてくれた。作者はそのとき、思わずああ! と立ち上って、殺されなかった! とささやいた。一・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・ 愛らしいわが原稿紙愛らしいわが 原稿紙おまえが、白紙に青の罫を持ちその罫を一面の文字で埋めて居るのを見ると私の心はおどる。朝、さっぱりと拭き浄められたマホガニー色の机の上で、又は、輝やいた日の午後・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・将来についても現実的に白紙の気持を抱かれたと思う。 それはまことに尤もなのだし、本人として外側から及ぼすどんな力も願ってはいなかったのだけれども、それでも先生の聰明な如才なさのうちに閃くように自身の未来を空白として感じとることは苦しかっ・・・ 宮本百合子 「時代と人々」
・・・一年の警察生活で宮本は白紙のまま起訴された。一週間に一遍ずつ市ヶ谷に面会にゆくことが日課になった。宮本がともかく警察で殺されないで市ヶ谷に行ったということは私を大変安心させた。小説の書ける気持になった。小説「乳房」を中央公論に発表した。この・・・ 宮本百合子 「年譜」
出典:青空文庫