・・・ 女は彼を今度は真正面から見つめて言った。「何をそんなに聞きたがるのさ。……私の家は貧乏だったの。弟妹がまだ四人もいるんだもの。それでさ。……でも、そうねえ、やはり、こうやって、白粉をつけたりしてみ――た――かったの、ねえ、そんなところ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・どうにも、かなわないので、真正面から取り組んでしまった。 ひと一人、くらい境遇に落ち込んだ場合、その肉親のうちの気の弱い者か、または、その友人のうちの口下手の者が、その責任を押しつけられ、犯しもせぬ罪を世人に謝し、なんとなく肩身のせまい・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・君の手紙に不潔を感じたというのではなく、鏡の反射光を真正面に自分のほうに向けられたような気がして、自分の醜さにまごつくのです。おわかりの事と思う。 君の作品に於いても、自分にはたった一つ大きい不満があります。十九世紀の一流品に比肩出来る・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・その点で彼は深く真正面に努めている。 ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・などと真正面から要求せられると、てれて、しどろもどろになるたちなので、その時にも、「立派な言葉」を一つも送る事が出来ず、すこぶる微温的な返辞ばかり書いて出していた。 からだが丈夫になってから、三田君は、三田君の下宿のちかくの、山岸さんの・・・ 太宰治 「散華」
・・・私の子は遊びをやめて、私のほうに真正面向いて、私の顔を仰ぎ見る。私も、子の顔を見下す。共に無言である。たまに私は、袂からハンケチを出して、きゅっと子の洟を拭いてやる事もある。そうして、さっさと私は歩く。子供のおやつ、子供のおもちゃ、子供の着・・・ 太宰治 「父」
・・・玄関から狭い廊下をくぐって案内された座席は舞台の真正面であった。知っている人の顔がそこらのあちこちに見えた。 独立な屋根をもった舞台の三方を廻廊のような聴衆観客席が取り囲んで、それと舞台との間に溝渠のような白洲が、これもやはり客席になっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・これらの絵はみんな附焼刃でない本当に自分の中にあるものを真正面に打出したものとしか思われない。これに反して今時の大多数の絵は、最初には自分の本当の感じから出発するとしても、甚だしいソフィスチケーションの迂路を経由して偶然の導くままに思わぬ効・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・この事を考慮に加えずして連俳を評し味わうことは不可能である。真正面から受ける「有心」の付け句がだいじであれば軽い「会釈」や「にげ句」はさらに必要である。前者は初心にできても、後者は老巧なものでなければできない重い役割であろう。 鑑賞の対・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・ と、其処は、本部の裏縁が見えて、縁下の土間まで、いっぱいに、争議団員が、ワイワイ云って騒いでいるのが、真正面に展開されている。 縁の上には、二三十人の若い男たちが、折柄の寒中にもめげず、スポリ、スポリと労働服を脱いで、真ッ裸だ。・・・ 徳永直 「眼」
出典:青空文庫