・・・大概洋服でなければ羽織袴を着た人たちのなかで芥川君の着流しの姿が目に立った。ひどく憔悴したつやのない青白い顔色をしてほかの人の群れから少し離れて立っていた姿が思い出される。くちびるの色が著しくあかく見えた事、長い髪を手でなで上げるかたちがこ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾風の大丸髷に寄席芸人とも見える角袖コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付の袷に半纏を重ねた遣手婆のような・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・雪の深い地方らしい板屋根の軒を掠めて水芸道具の朱総がちらちらしたり、太鼓叩きには紫色の着流し男がいたりするのが、荒涼とした温泉町に春らしい色彩であった。 なほ子は、すっかり道具をしまった小車を引いて彼等がそこを立ち去るまで見ていた。・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・体じゅうの線が丸く、頬っぺたがまるで赧い。着流しであった。紺足袋に草履ばきで近づき、少し改った表情で挨拶された。「私が瀧田です」 言葉の響の中に、つよい北方の訛があった。その訛が、顔や体に現れる微細な動き、調子とひどく調和してい、一・・・ 宮本百合子 「狭い一側面」
・・・僕は人の案内するままに二階へ升って、一間を見渡したが、どれもどれも知らぬ顔の男ばかりの中に、鬚の白い依田学海さんが、紺絣の銘撰の着流しに、薄羽織を引っ掛けて据わっていた。依田さんの前には、大層身綺麗にしている、少し太った青年が恭しげに据わっ・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫