・・・僕は一つには睡眠を得るために、また一つには病的に良心の昂進するのを避けるために〇・五瓦のアダリン錠を嚥み、昏々とした眠りに沈んでしまった。…… 芥川竜之介 「死後」
・・・ 早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を曳いて動いた。船である。 睡眠は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、寿かれ、鷭よ。 雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。 お澄が・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ かく打ち謝罪るときしも、幼児は夢を破りて、睡眠のうちに忘れたる、饑えと寒さとを思い出し、あと泣き出だす声も疲労のために裏涸れたり。母は見るより人目も恥じず、慌てて乳房を含ませながら、「夜分のことでございますから、なにとぞ旦那様お慈・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・怠けたような、淋しいような、そうかというと冴えた調子で、間を長く引張って唄いまするが、これを聞くと何となく睡眠剤を服まされるような心持で、桂清水で手拭拾た、 これも小川の温泉の流れ。 などという、いわんや巌に滴るのか、湯・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・僅かな睡眠の中にも必ず夢を見る。夢はことごとく雨の音水の騒ぎである。最も懊悩に堪えないのは、実際雨が降って音の聞ゆる夜である。わが財産の主脳であるところの乳牛が、雨に濡れて露天に立っているのは考えるに堪えない苦しみである。何ともたとえようの・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 鴎外は睡眠時間の極めて少ない人で、五十年来の親友の賀古翁の咄でも四時間以上寝た事はないそうだ。少年時代からの親交であって度々鴎外の家に泊った事のある某氏の咄でも、イツ寝るのかイツ起きるのか解らなかったそうだ。 鴎外の花園町の家・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・二晩も寝ずに昼夜打っ通しの仕事を続けていると、もう新吉には睡眠以外の何の欲望もなかった。情欲も食欲も。富も名声も権勢もあったものではない。一分間でも早く書き上げて、近所の郵便局から送ってしまうと、そのまま蒲団の中にもぐり込んで、死んだように・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・こんな不安も吉田がその夜を睡むる当てさえあればなんの苦痛でもないので、苦しいのはただ自分が昼にも夜にも睡眠ということを勘定に入れることができないということだった。吉田は胸のなかがどうにかして和らんで来るまでは否でも応でもいつも身体を鯱硬張ら・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・そして一人の子どもの哺乳や、添寝や、夜泣きや、おしっこの始末や、おしめの洗濯でさえも実に睡眠不足と過労とになりがちなものであるのに、一日外で労働して疲労して帰って、翌日はまた託児所にあずけて外出するというようなことで、果して母らしい愛育がで・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・ 夜、八時就寝、たっぷり十一時間の睡眠がとれる。 俺だちは「外」にいた時には、ヒドイ生活をしていた。一カ月以上も元気でお湯に入らなかったし、何日も一日一度の飯で歩き廻って、ゲッそり痩せてしまったこともある。一週間と同じ処に住んで・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫