・・・また現在の自己の内に次の瞬間への自己の存続の原因は求められない。そこに創造的なるものが働かねばならない。かかる原因として我々は神の存在を認めねばならないという。しかし斯く考える時、自己はそれ自身によってある実在ではない。それ自身によってある・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密について多く語る必要はないであろう。ただ私の場合は、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ と云う程、慣れ切った仕事であったのに、それでもその一瞬間は、たとい夏であっても体のどこかに、寒さに似たものを感じるのであった。 見張りで、ベルをガラン、ガランと振り始めた。吹雪の呻りとベルの音とが、妙に淋しくこんがらかって、流れて・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・しかし火つけが悪い事と感じた瞬間には、本心に咎める所があって、あんな事をせなんだら善かったと思わずには居られまいと思うがどうであろうか。なかなか以てそんな事は思わぬ。それならその瞬間にはどういう事を思うて居たろうか。それは、吉三は可愛いと思・・・ 正岡子規 「恋」
・・・おれたちの仕事はな、地殻の底の底で、とけてとけて、まるでへたへたになった岩漿や、上から押しつけられて古綿のようにちぢまった蒸気やらを取って来て、いざという瞬間には大きな黒い山の塊を、まるで粉々に引き裂いて飛び出す。煙と火とを固めて空に抛・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・おふみと芳太郎とは、漠然と瞬間、全く偶然にチラリと目を合わすきりで、それは製作者の表現のプランの上に全然とりあげられていなかったのである。後味の深さ、浅さは、かなりこういうところで決った。溝口氏も、最後を見終った観客が、ただアハハハとおふみ・・・ 宮本百合子 「「愛怨峡」における映画的表現の問題」
・・・と口に出そうであったのを呑み込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活けて、大きい枠火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗に、盛り上げたようにして置いて、起って行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸で・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 今娘が戸の握りを握って、永遠に別れて帰ろうとするツァウォツキイの鼻のさきで、戸を締め切ろうとした瞬間に、ツァウォツキイは右の拳を振り上げて、娘の白い、小さい手を打った。 娘はツァウォツキイの顔をじっと見た。そして再び戸の握りを握っ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・思いを殺し、腰蓑の鋭さに水滴を弾いて、夢、まぼろしのごとく闇から来り、闇に没してゆく鵜飼の灯の燃え流れる瞬間の美しさ、儚なさの通過する舞台で、私らの舟も舷舷相摩すきしみを立て、競り合い揺れ合い鵜飼の後を追う。目的を問う愚もなさず、過去を眺め・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・ 実際私たちのような仕事を選んだ者は、ある一つの輝いた瞬間を捕えるために、果実のないむだな永い時間を費やすことがあります。そういう時に人が、そんなにノラクラしているくらいなら、と思うのも無理はないと思います。自分でさえそう感じる事が時に・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫