・・・「それは御立腹なすったでしょう。」「康頼は怒るのに妙を得ている。舞も洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者じゃ。あの男は謀叛なぞに加わったのも、嗔恚に牽かれたのに相違ない。その嗔恚の源はと云えば、やはり増長慢のなせる業じゃ。平家・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・大して御立腹もあるまいけれども、作がいいだけに、瞬もしたまいそうで、さぞお鬱陶しかろうと思う。 俥は寂然とした夏草塚の傍に、小さく見えて待っていた。まだ葉ばかりの菖蒲杜若が隈々に自然と伸びて、荒れたこの広い境内は、宛然沼の乾いたのに似て・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・母も夜時々眼をさましてみると、民子はいつでも、すくすく泣いている声がしていたというので、今度は母が非常に立腹して、お増と民子と二人呼んで母が顫声になって云うには、「相対では私がどんな我儘なことを云うかも知れないからお増は聞人になってくれ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・そういう人であるから、自分の言ったことが、聞かれないと執念深く立腹する。今おとよの挨拶ぶりが、不承知らしいので内心もう非常に激昂した。ことに省作の事があるから一層怒ったらしく顔色を変えて、おとよをねめつけていたが、しばらくしてから、「ウ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・折角の帯も三円にしかならず、仕方なしにお政は自分の出て行った後でこの三円を母に渡すと、母は大立腹。二人の問答は次のようであった。「五円と言って来たのだよ」「でも只今これだけしか無いのですから……」「だって先刻用意してあると言った・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・男爵このごろ、こんなに立腹したことはなかった。怒鳴り散らしているうちに、身のたけ一尺のびたような、不思議なちからをさえ体内に感じた。 あまりの剣幕に、とみの唇までが蒼くなり、そっと立ちあがって、「あの。とにかく。弟に。」聞きとれぬほ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・自身のぶざまが、私を少し立腹させたのである。手袋も上衣もズボンもそれからマントも、泥まみれになっている。私はのろのろと起きあがり、頭をあげて百姓のもとへ引返した。百姓は、女給たちに取りまかれ、まもられていた。誰ひとり味方がない。その確信が私・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ と橋田氏は、僕の茶化すような質問に立腹したような口調で、「貴族の立小便なんかじゃありませんよ。少しでも、ほんのちょっとでも永く、私たちの傍にいたくて、我慢に我慢をしていたせいですよ。階段をのぼる時の、ドスンドスンも、病気でからだが・・・ 太宰治 「眉山」
・・・が二つころがっている様を見たら、かれは余りの恥ずかしさに、立腹したそうである。私の家にも、美事な鮎を、お土産に持って来てくれた。伊豆のさかなやから買って来たという事を、かれは、卑怯な言いかたで告白した。「これくらいの鮎を、わけなく釣っている・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・況して其夫が立腹癇癪などを起して乱暴するときに於てをや。妻も一処に怒りて争うは宜しからず、一時発作の病と視做し一時これを慰めて後に大に戒しむるは止むを得ざる処置なれども、其立腹の理非をも問わず唯恐れて順えとは、婦人は唯是れ男子の奴隷たるに過・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫