・・・またこれを読んで会心の笑みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・柿の熟したような色をしたその顔が、さもさも喜びに堪えないといったように、心の笑みを絞り出した表情をしている。これが生きている人の本当の顔ならば、おそらく一分間あるいは三十秒間もそのままに持続する事は困難だろうと思われる表情をいつまでも持続し・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・途端に其処に通掛った近衛の将校の方があったのです――凛々しい顔をなすった戦争に強そうな方でしたがねえ、其将校の何処が気に入らなかったのか、其可怖眼をした女の方が、下墨む様な笑みを浮べて、屹度お見でしたの。『彼人達は死ぬのが可いのよ。死ぬ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・文を売りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに諸侯の威をもってし招くに春岳の才をもってし、しこうして一曙覧をして破屋竹笋の間より起たしむるあたわざりしもの何・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・――片頬笑みが陽子の口辺に漂った。途端、けたたましい叫び声をあげて廊下の鸚哥があばれた。「餌がないのかしら」 ふき子が妹に訊いた。「百代さん、あなたけさやってくれた?」 百代は聞えないのか返事しなかった。「よし、僕が見て・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・机に居ても 空は見え畳に座しても大どかな海の円みと砂のかおりが頬のあたりに そっと忍びよって来るああ、新しい部屋のうち新らしい人生へのときめきを覚えて見えない神に笑みかける私の悦びを誰に伝えよう。・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ 苦労も何もない様にして居る二人を傍に長くなって見て居るうちに、これほど大きなものの父であると云う喜びが、腹の底から湧いたけれ共、自分の貧乏を思うと、出かかった微笑みも消えてしまった。 恭二の顔をまじまじと見ながら、「貴方も・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・骨組みのたくましい、筋肉が一つびとつ肌の上から数えられるほど、脂肪の少い人で、牙彫の人形のような顔に笑みを湛えて、手に数珠を持っている。我が家を歩くような、慣れた歩きつきをして、親子のひそんでいるところへ進み寄った。そして親子の座席にしてい・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ お豊さんは驚きあきれた顔をして黙っていたが、しばらくすると、その顔に笑みがたたえられた。「うそでしょう」「本当です。わたしそのお話をしに来ました。これからお母あさまに申し上げようと思っています」 お豊さんは手拭いを放して、両手・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・夫婦はこの一日の物語に疲れを忘れて互いに笑みかわす。楽しき家庭があればこそ朝より夕まで一息に働いた。暖かき家庭には愛が充つ。愛の充つ所にはすべての徳がある。宇宙の第一者に意識してさらに真善美に突進するの勇を振るい起こす。この境地は現世の理想・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫