朝食の食卓で偶然箱根行の話が持上がって、大急ぎで支度をして東京駅にかけつけ、九時五十五分の網代行に間に合った。二月頃から、一度子供連れで熱海へでも行ってみようと云っていたが、日曜というと天気が悪かったり、天気がいいと思うと・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・国府津の停車場前からはその頃既に箱根行の電車があった。病院に着いて、二階の一室に案内せられ、院長の診察を受けたりしていると、間もなく昼飯時になった。父は病院の食物を口にしたくなかったためであろう。わたくしをつれて城内の梅園に昼飯を食べに出掛・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・第二には、両親は逗子とか箱根とかへ家中のものを連れて行くけれど、自分はその頃から文学とか音楽とかとにかく中学生の身としては監督者の眼を忍ばねばならぬ不正の娯楽に耽りたい必要から、留守番という体のいい名義の下に自ら辞退して夏三月をば両親の眼か・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・わたくし達一同の視線は唯前栽の中に咲いている箱根ウツギと池の彼方に一本生残っている老松の梢に空しく注がれるばかりであった。園主佐原氏は久しく一同とは相識の間である。下婢に茶菓を持運ばせた後、その蔵幅中の二三品を示し、また楽焼の土器に俳句を請・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ 旅の旅その又旅の秋の風 国府津小田原は一生懸命にかけぬけてはや箱根路へかかれば何となく行脚の心の中うれしく秋の短き日は全く暮れながら谷川の音、耳を洗うて煙霧模糊の間に白露光あり。 白露の中にほつかり夜の山 湯元に辿・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 浜は遠い箱根の裾までひろがっているのに見渡す限り人影もない。犬も淋しそうであった。頻りに尾を振り、前になり、後になり、真白な泡になってサーと足許に迫って来る潮を一向恐れず元気に汀を走るのが海辺の犬らしかった。父がやがて、「気をつけ・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・愛は戸棚の、小さい箱根細工の箱から、銀貨、白銅とりまぜて良人の拡げた掌の上にチリン、チリンと一つずつ落した。「これがお風呂。これが三助。――これが――お土産」 禎一は、いい気持そうに髪の毛をしめらせ、程なく帰って来た。彼は、たっぷり・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・手紙は一人の友達からであった。箱根の山へピクニックしたことも書いてあり、山の上に憩ありというゲーテの詩など感想にふくめて書かれているのだが、ここに封入しました、という十国峠の写真は入っていなかった。封筒の表を改めて見直したら、写真一葉領置と・・・ 宮本百合子 「写真」
・・・やがてつれて箱根などにゆく。 四月二十八日 那須 ○まだ若葉どころかやっと芽のあま皮がむけたばかり ○笹芝にまじって春輪どうの小さい碧い色の花が咲いて居る。 ○山の皺にまだ雪アリ ○四五月頃の温泉あまりよ・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・汽車東海道は箱根附近の線路破かいされた為金沢から信越線にゆき、大宮頃迄だろうと云う。鎌倉被害甚しかろうと云うので、国男のこと事ム所の父のことを思い、たまらなし。 九月四日 火曜日 午後四時五十七分福井発。 もう福井駅に、避難・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
出典:青空文庫