・・・どれ、糠雨でも飲むべい、とってな、理右衛門どんが入交わって漕がしつけえ。 や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫で爺さまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天窓から褞袍被ってころげた達磨・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・…… 木の葉をこぼれる雫も冷い。……糠雨がまだ降っていようも知れぬ。時々ぽつりと来るのは――樹立は暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆蟹になりそうに見えるまで、濡々と森の梢を・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・留南奇の薫が陽炎のような糠雨にしっとり籠って、傘が透通るか、と近増りの美しさ。 一帆の濡れた額は快よい汗になって、「いいえ、構わない、私は。」 と言った、がこれは心から素気のない意味ではなかった。「だって、召物が。」「何・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 若葉の茂りに庭のみならず、家の窓もまた薄暗く、殊に糠雨の雫が葉末から音もなく滴る昼過ぎ。いつもより一層遠く柔に聞えて来る鐘の声は、鈴木春信の古き版画の色と線とから感じられるような、疲労と倦怠とを思わせるが、これに反して秋も末近く、一宵・・・ 永井荷風 「鐘の声」
汽車の窓から怪しい空を覗いていると降り出して来た。それが細かい糠雨なので、雨としてよりはむしろ草木を濡らす淋しい色として自分の眼に映った。三人はこの頃の天気を恐れてみんな護謨合羽を用意していた。けれどもそれがいざ役に立つとなるとけっし・・・ 夏目漱石 「初秋の一日」
出典:青空文庫