・・・侍はすぐに編笠をかぶったが、ちらりと見た顔貌は瀬沼兵衛に紛れなかった。左近は一瞬間ためらった。ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、行く方・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ この雲煙邱壑は、紛れもない黄一峯です、癡翁を除いては何人も、これほど皴点を加えながら、しかも墨を活かすことは――これほど設色を重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・皆紛れない真実でござる。」 奉行は吉助の申し条を不思議に思った。それは今まで調べられた、どの切支丹門徒の申し条とも、全く変ったものであった。が、奉行が何度吟味を重ねても、頑として吉助は、彼の述べた所を飜さなかった。 ・・・ 芥川竜之介 「じゅりあの・吉助」
・・・「成経様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御紛れになる事もありましたろうに。」「ところが始終蒼い顔をしては、つまらぬ愚痴ばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・軽に唄いもし、踊りもしたのに、一夜、近所から時借りの、三味線の、爪弾で……丑みつの、鐘もおとなき古寺に、ばけものどしがあつまりア…… ――おや、聞き馴れぬ、と思う、うたの続きが糸に紛れた。――きりょうも、いろ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。 そう言えば、全校の二階、下階、どの教場からも、声一つ、咳半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午になる一時間ほど、寂寞とするのは無い。――それは小児たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 朝寝はしたし、ものに紛れた。午の庭に、隈なき五月の日の光を浴びて、黄金の如く、銀の如く、飛石の上から、柿の幹、躑躅、山吹の上下を、二羽縦横に飛んで舞っている。ひらひら、ちらちらと羽が輝いて、三寸、五寸、一尺、二尺、草樹の影の伸びるとと・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・一度持出したとも聞くが、混雑に紛れて行方を知らない。あれほど気を入れていたのであるから、大方は例の車に乗って、雛たち、火を免れたのであろう、と思っている。 その後こういう事があった。 なおそれから十二、三年を過ぎてである。 逗子・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・ 洋燈を片寄せようとして、不図床を見ると紙本半切の水墨山水、高久靄で無論真筆紛れない。夜目ながら墨色深潤大いに気に入った。此気分のよいところで早速枕に就くこととする。 強いて頭を空虚に、眼を閉じてもなかなか眠れない、地に響くような波・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・「棄てられたり紛れたりして来たから拾って育ててやるので、犬や猫を飼うのは楽みよりは苦みである。わざわざ求めて飼うもんじゃ決してない、」といっていた。二葉亭の犬や猫に対するや人間の子を愛すると同じ心持であった。六 二葉亭の文章癖・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
出典:青空文庫