・・・その向こうには紫色がかった高い山が蜿蜒としている。砲声はそこから来る。 五輛の車は行ってしまった。 渠はまた一人取り残された。海城から東煙台、甘泉堡、この次の兵站部所在地は新台子といって、まだ一里くらいある。そこまで行かなければ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・中年の商人風の男の中に交じった一人の若い女の紫色に膨れ上がった顔に白粉の斑になっているのが秋の日にすさまじく照らし出されていた。一段降りて河畔の運動場へ出ると、男女学生の一と群が小鳥のごとく戯れ遊んでいた。男の方がたいてい大人しくしおらしく・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・幸いこんにゃく桶は水がこぼれただけだったが、私の尻餅ついたところや、桶のぶっつかったところは、ちょうど紫色の花をつけたばかりの茄子が、倒れたり千切れたりしているのであった。「なにさ、おやおや――」 玄関の格子戸がけたたましくあいて、・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ ふと見れば、乗合自動車が駐る知らせの柱も立っているので、わたくしは紫色の灯をつけた車の来るのを待って、それに乗ると、来る人はあってもまだ帰る人の少い時間と見えて、人はひとりも乗っていない。何処まで行くのかと車掌にきくと、雷門を過ぎ、谷・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・そのくせ寒いので鼻の頭が少し紫色になっている。 なるほど立派な籠ができた。台が漆で塗ってある。竹は細く削った上に、色が染けてある。それで三円だと云う。安いなあ豊隆と云っている。豊隆はうん安いと云っている。自分は安いか高いか判然と判らない・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・中には紫色になるものもある。普通のくだものの皮は赤なら赤黄なら黄と一色であるが、林檎に至っては一個の菓物の内に濃紅や淡紅や樺や黄や緑や種々な色があって、色彩の美を極めて居る。その皮をむいで見ると、肉の色はまた違うて来る。柑類は皮の色も肉の色・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・それでもその小さな子は空が紫色がかった白光をしてパリパリパリパリと燃えて行くように思ったんだ。そしてもう天地がいまひっくりかえって焼けて、自分も兄さんもお母さんもみんなちりぢりに死んでしまうと思ったんだい。かあいそうに。そして兄さんにまるで・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 晴れた西日が野にさして、雪は紫色だ。林は銅色。 小さい駅。白樺。黄色く塗った木造ステーション。チェホフ的だ。赤い帽子をかぶった駅長が一人ぼっち出て来て、郵便車から雪の上へ投げた小包を拾い上げた。その小包には切手が沢山はってあった。・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・ところどころ紫色の岩の露われている所を通って、やや広い平地に出る。そこに雑木が茂っているのである。 厨子王は雑木林の中に立ってあたりを見廻した。しかし柴はどうして苅るものかと、しばらくは手を着けかねて、朝日に霜の融けかかる、茵のような落・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ナポレオンの爪に猛烈な征服慾があればあるほど、田虫の戦闘力は紫色を呈して強まった。全世界を震撼させたナポレオンの一個の意志は、全力を挙げて、一枚の紙のごとき田虫と共に格闘した。しかし、最後にのた打ちながら征服しなければならなかったものは、ナ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫