・・・清戦争に出征して、屡々勲功を顕したる勇士なれど、凱旋後とかく素行修らず、酒と女とに身を持崩していたが、去る――日、某酒楼にて飲み仲間の誰彼と口論し、遂に掴み合いの喧嘩となりたる末、頸部に重傷を負い即刻絶命したり。ことに不思議なるは同人の頸部・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・そして次の障碍競走では、人気馬が三頭も同じ障碍で重なるように落馬し、騎手がその場で絶命するという騒ぎの隙をねらって、腐り厩舎の腐り馬と嗤われていた馬が見習騎手の鞭にペタペタ尻をしばかれながらゴールインして単複二百円の配当、馬主も騎手も諦めて・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 弟子の鏡忍房は松の木を引っこ抜いて防戦したが討ち死にし、難を聞いて駆けつけた工藤吉隆も奮闘したが、衆寡敵せず、ついに傷ついて絶命した。 日蓮は不思議に一命は助かったが、頭に傷をうけ、左の手を折った。 日蓮は工藤吉隆の法華経のた・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・数時間後に絶命した後にもまだ涙は見せなかった。しばらくして後にその子の母から、その日の朝その子供のしたあるかわいい行動について聞かされたときに始めて流涕したそうである。これと似た経験はおそらく多数の人がもち合わせていることと思われる。 ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ たとえば少年の勇士が死を決して自から快と称する者あれども、その快たるや、ただ絶命のみをもって快とするに非ず。その時の事情をいえば、本人の心に企つるところの事は大に過ぎて、これに応ずべき自己の力は小にして足らず、その大小の平均を得るに路・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・母はわたしの顔をおぼろの視力でようように見わけ十五分ののちに絶命した。 その一九三四年の十二月に、わたしは淀橋区上落合の、中井駅から近い崖の上の家に移った。たった一人そこに住んでいた作者の生活は、近所の壺井繁治同栄、窪川稲子、一田アキな・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・ 神戸方で三右衛門は二十七日の寅の刻に絶命した。 その日の酉の下刻に、上邸から見分に来た。徒目附、小人目附等に、手附が附いて来たのである。見分の役人は三右衛門の女房、伜宇平、娘りよの口書を取った。 役人の復命に依って、酒井家・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫