・・・ 泰さんは新蔵の顔を見ると、手をとらないばかりにして、例の裏座敷へ通しましたが、やがてその手足の創痕だの、綻びの切れた夏羽織だのに気がついたものと見えて、「どうしたんだい。その体裁は。」と、呆れたように尋ねました。「電車から落っこってね・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 二 そう云って、綻びて、袂の尖でやっと繋がる、ぐたりと下へ襲ねた、どくどく重そうな白絣の浴衣の溢出す、汚れて萎えた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突込んだのは、賽銭を探ったらしい。 ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ ……心着くと、おめしものも気恥しい、浴衣だが、うしろの縫めが、しかも、したたか綻びていたのである。「ここもとは茅屋でも、田舎道ではありませんじゃ。尻端折……飛んでもない。……ああ、あんた、ちょっと繕っておあげ申せ。」「はい。」・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 目の露したたり、口許も綻びそうな、写真を取って、思わず、四辺を見て半紙に包もうとした。 トタンに人気勢がした。 樹島はバッとあかくなった。 猛然として憶起した事がある。八歳か、九歳の頃であろう。雛人形は活きている。雛市は弥・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・この時東の空、雲すこしく綻びて梢の間より薄き日の光、青年の顔に落ちぬ、青年は夢に舟を浮かべて清き流れを下りつつあり、時はまさに春の半ばなり。左右の岸は新緑の光に輝き、仰げば梢と梢との間には大空澄みて蒼く高く、林の奥は日の光届きかねたれど、木・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・芸者衆がたくさん私の家に来て居りまして、ひとりのお綺麗な半玉さんに紋附の綻びを縫って貰ったりしましたのを覚えて居りますし、父様が離座敷の真暗な廊下で脊のお高い芸者衆とお相撲をお取りになっていらっしゃったのもあの晩のことでございました。父様は・・・ 太宰治 「葉」
・・・この前四谷に行って露子の枕元で例の通り他愛もない話をしておった時、病人が袖口の綻びから綿が出懸っているのを気にして、よせと云うのを無理に蒲団の上へ起き直って縫ってくれた事をすぐ聯想する。あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変らなか・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・破れた靴の綻びからは、雪が染み込む。 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・一人が腰を捉まえた拍子に、ビリビリ音がして単衣羽織が綻びた。必死で片腕にぶら下っている手塚が殺気立って息を切らしながら、「拘わん、拘わん」と頭を振った。「遠慮している場合じゃない、おい! 石川!」 石川は、後から幸雄の肩を確・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫