・・・其一くさりが畢ると瞽女は絃を緩めで三味線を紺の袋へ納めた。そうして大きな荷物の側へ押しやった。大勢はまたがやがやと騒がしく成った。其時夜は深けかかって居た。人はだんだんに去って狭い店先はひっそりとした。太十はそれでも去らなかった。店先へぽっ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 女はあっと云って、緊めた手綱を一度に緩めた。馬は諸膝を折る。乗った人と共に真向へ前へのめった。岩の下は深い淵であった。 蹄の跡はいまだに岩の上に残っている。鶏の鳴く真似をしたものは天探女である。この蹄の痕の岩に刻みつけられている間・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・と、その男は風船玉の萎む時のように、張りを弛めた。「だが、何だってお前たちは、この女を素裸でこんな所に転がしとくんだい。それに又何だって見世物になんぞするんだい」と云い度かった。奴等は女の云う所に依れば、悪いんじゃないんだが、それにして・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・の内実は徳川政府がその幕下たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。一時の兵禍を・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・ そして、人と話し、人と笑いしている間に、いつともなく緩められて行くいろいろの感情、特に空想や、漠然とした哀愁、憤懣などは、皆彼女の内へ内へとめりこんで来、そのどうにかならずにいられない勢が、彼女の現在の生活からは最も遠い、未知の世界で・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・中野が何か思い出したという様子で、歩度を緩めてこう云った。「おう。それからも一つ君に話しておきたいことがあった。馬鹿な事だがなあ。」「何だい。僕はまだ来たばかりで、なんにも知らないんだから、どしどし注意を与えてくれ給え。」「実は・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・一つの坂をおりきった所で、私は息を切らして歩度を緩めた。前にはまたのぼるべきだらだら坂がある。――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引き放すものがあった。私は坂の上に見える深い空をながめた。小径を両側から覆うている松の姿をながめた。何と・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫