・・・うしろは五十万坪と称うる練兵場。 紫玉が、ただ沈んだ水底と思ったのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であった。―― 雨を得た市民が、白身に破法衣した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰の光景が見せたい。大正九年一月・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・あの狭い練兵場で、毎日、毎日、朝から晩まで、立てとか、すわれとか、百メートルとか、千メートルとか、云うて、戦争の真似をしとるんかと思うと、おかしうもなるし、あほらしうもなるし、丸で子供のままごとや。えらそうにして聨隊の門を出て来る士官はんを・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・このエキゾチックな貴族臭い雰囲気に浸りながら霞ガ関を下りると、その頃練兵場であった日比谷の原を隔てて鹿鳴館の白い壁からオーケストラの美くしい旋律が行人を誘って文明の微醺を与えた。今なら文部省に睨まれ教育界から顰蹙される頗る放胆な自由恋愛説が・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・「二度とも一週間の練兵休で、すぐまた、勤務につかせられたよ。」「十分念を入れてみて貰うたらどうだ。」「どんなにみて貰うたってだめだよ。」 そしてまた咳をした。「おい。みんな何をしているんだ!」入口から特務曹長がどなった。「命・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ 呼出されるのを待つため、練兵場に並んだ時、送って来た者は入営する者の傍に来ることが出来ないので親爺と別れた。それから、私がこちらの中隊へ来ることを、親爺に云うひまがなかった。各中隊へ分れて行く者の群が雑沓していた。送って来た者は、どち・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・夕食の少しまえに、私はすぐ近くの四十九聯隊の練兵場へ散歩に出て、二、三の犬が私のあとについてきて、いまにも踵をがぶりとやられはせぬかと生きた気もせず、けれども毎度のことであり、観念して無心平生を装い、ぱっと脱兎のごとく逃げたい衝動を懸命に抑・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・早朝、練兵場の草原を踏みわけて行くと、草の香も新鮮で、朝露が足をぬらして冷や冷やして、心が豁然とひらけ、ひとりで笑い出したくなるくらいである、という家内の話であった。私は暑熱をいい申しわけにして、仕事を怠けていて、退屈していた時であったから・・・ 太宰治 「美少女」
・・・兵隊はいやなものでも、将校と云うものはいいものだろうと思っていたが、いつか練兵場で練兵するのを見ていたら、若い将校が一人の兵隊をつかまえて、何か声高に罵しっていた。その言葉使いの野卑で憎らしかったには、傍で聞いている子供心にもカッと腹が立っ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・それから人力にゆられて夜ふけの日比谷御門をぬけ、暗いさびしい寒い練兵場わきの濠端を抜けて中六番町の住み家へ帰って行った。その暗い丸の内の闇の中のところどころに高くそびえたアーク燈が燦爛たる紫色の光を出してまたたいていたような気がする。そのこ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
一 若葉のかおるある日の午後、子供らと明治神宮外苑をドライヴしていた。ナンジャモンジャの木はどこだろうという話が出た。昔の練兵場時代、鳥人スミスが宙返り飛行をやって見せたころにはきわめて顕著な孤立した存・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
出典:青空文庫