・・・甲板を走る靴の音は忙しくなって、人々の言い罵る声が聞える。あるいは誰かが誤って海中へ落ち込んだでもあろうか、など想像して居る中に、甲板から下りて来た人が、驚くべき報知を持ち来した。それは、この船に乗って居た軍夫が只今コレラで死んだ、という事・・・ 正岡子規 「病」
・・・千鶴子が、自分に対する複雑な反感を潔よく現し、真直罵るなり何なりしたら、却って心持よかったとはる子は遺憾に思った。千鶴子は圭子に向ってそのように激しつつも、はる子に対しては、その寛大さや友情を認め感謝を示していたのであった。 その心持に・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
・・・子供のきくことに答えるよりさきに、下島のおじさんをよんで、面と向って、はげしく罵るぐらいに怒った。母の怒りがあまりつよいから、母とおじとをとりまいて息をこらして見物している子供の心には母の怒のはげしさに焼かれ清潔にされたように、おじさんの云・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ 口では、まるで一ひねりに捻り潰してくれそうな勢で彼女を罵ることだけは我劣らじと罵る。 けれども、若しその公憤を具体化そうとでも云えば、彼等は互に顔を見合わせながら、「はあ…… 相手がわれえ……」と尻込みをして、一人一人・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・狭い、長い廊下に人が押し合って、がやがやと罵る。非常な混雑であった。 四畳半には鋭利な刃物で、気管を横に切られたお蝶が、まだ息が絶えずに倒れていた。ひゅうひゅうと云うのは、切られた気管の疵口から呼吸をする音であった。お蝶の傍には、佐野さ・・・ 森鴎外 「心中」
・・・あれは仏を呵し祖を罵るのだね。」 寧国寺さんは羊羹を食べて茶を喫みながら、相変わらず微笑している。 五 富田は目を据えて主人を見た。「またお講釈だ。ちょいと話をしている間にでも、おや、また教えられたなと思・・・ 森鴎外 「独身」
・・・といい罵るものもありましたが、また元の奥様を知っていた人から、すぐに聞たッて、一々ほんとうだといい張る者さえあったんです。その話というはこうなんです。 人の知らない遠い片田舎に、今の奥さまが、まだ新嫁でいらしッたころ、一人の緑子を形見に・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そうして他人の不道徳を罵る時にはその内面的の穢なさを指摘しようとします。 しかし自分の心はどれほど清らかになっているか。恥ずべき行為をしないと自信している私は、心の中ではなおあらゆる悪事を行なっているのです。最も狂暴なタイラントや最も放・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・こう自分で自分を罵る。そして自分の人格の惨めさに息の詰まるような痛みを感ずる。 しかしやがて理解の一歩深くなった喜びが痛みのなかから生まれて来る。私は希望に充ちた心持ちで、人生の前に――特に偉人の内生の前に――もっともっと謙遜でなくては・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・ たとえ自分の内に、この要求のなお生温くまた深刻でないことを罵る声が絶えないにしても、自分は前よりは一歩深く生活にはいって行ったように感ずる。かつて自分が我を斥けようと努力した時代に比べれば、他動が自動に変わったという意味で全く違った心・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫