・・・ 記録の語る所によると、クリストは、「物に狂うたような群集の中を」、パリサイの徒と祭司とに守られながら、十字架を背にした百姓の後について、よろめき、歩いて来た。肩には、紫の衣がかかっている。額には荊棘の冠がのっている。そうしてまた、手や・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・ 獣医の心得もある蹄鉄屋の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・空想の中に描かれていたアプスの淋しさとは打って変って、堂内にはひしひしと群集がひしめいていた。祭壇の前に集った百人に余る少女は、棕櫚の葉の代りに、月桂樹の枝と花束とを高くかざしていた――夕栄の雲が棚引いたように。クララの前にはアグネスを従え・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ たちまち群集の波に捲かれると、大橋の橋杭に打衝るような円タクに、「――環海ビルジング」「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」 おやおや、会場は近かった。土橋寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・小児は争って買競って、手の腥いのを厭いなく、参詣群集の隙を見ては、シュッ。「打上げ!」「流星!」 と花火に擬て、縦横や十文字。 いや、隙どころか、件の杢若をば侮って、その蜘蛛の巣の店を打った。 白玉の露はこれである。・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・その頃は神仏参詣が唯一の遊山であって、流行の神仏は参詣人が群集したもんだ。今と違って遊山半分でもマジメな信心気も相応にあったから、必ず先ず御手洗で手を清めてから参詣するのが作法であった。随って手洗い所が一番群集するので、喜兵衛は思附いて浅草・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・が、人生の説明者たり群集の木鐸たる文人はヨリ以上冷静なる態度を持してヨリ以上深酷に直ちに人間の肺腑に蝕い入って、其のドン底に潜むの悲痛を描いて以て教えなければならぬ。今日以後の文人は山林に隠棲して風月に吟誦するような超世間的態度で芝居やカフ・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・と、群集の中から、一人がいいました。「幸福の島?」と、そのとき、三人の中一人が、自分の耳を怪しむように、大きな声で聞き返しました。「そうだ。幸福の島に長い間、住んでいたかと聞くのだ。」と、群集の中から一人が答えました。「ばかにす・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・ 昨日行方不明になった、三人のものの家族や、たくさんの群集が、五つの赤いそりが、捜索に出かけるのを見送りました。「うまく探してきてくれ。」と、見送る人々がいいました。「北のはしの、はしまで探してくる。」と、五人の男たちは叫びまし・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・死者の女房は、群集の中から血なまぐさい担架にすがり寄った。「千恵子さんのおばさん死んだの。」「これ! だまってなさい!」 無心の子供を母親がたしなめていた。 井村は、自分にむけられた三本脚の松ツァンの焦燥にギョロ/\光った視・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
出典:青空文庫