・・・この時計の示す時刻は何を示すかといえば、それは宇宙の老衰の程度を示すものである。エネルギーの全量は不変でも、それはこの時計の進むにつれて墜落し廃頽して行く。この時計ほど適切に不可逆な時の進みを示すものはないのであろう。しかし実際このような時・・・ 寺田寅彦 「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」
・・・ 正面の築山の頂上には自分の幼少のころは丹波栗の大木があったが、自分の生長するにつれて反比例にこの木は老衰し枯死して行った。この絵で見ると築山の植え込みではつつじだけ昔のがそのまま残っているらしい。しかし絵の主題になっている紅葉は自分に・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・ 十三 九月中旬になって東京の街路を飾るプラタヌスの並み木が何か思い出しでもしたように新しい芽を出している。老衰して黒っぽくなりその上に煤煙によごれた古葉のかたまり合った樹冠の中から、浅緑色の新生の灯が点々として・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・末が、汽車でも電車でも出入りの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと、自分は今までは唯淋しいとばかり見ていた場末の町の心持に、突然人間の零落、老衰、病死なぞいう特種の悲惨を附加えて見・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・私は日々に憔悴し、血色が悪くなり、皮膚が老衰に澱んでしまった。私は自分の養生に注意し始めた。そして運動のための散歩の途中で、或る日偶然、私の風変りな旅行癖を満足させ得る、一つの新しい方法を発見した。私は医師の指定してくれた注意によって、毎日・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ビジテリアン諸氏はこれらのことは充分ご承知であろうが尚これを以て多くの病弱者や老衰者並に嬰児にまで及ぼそうとするのはどう云うものであろうか。 第二は植物性食品はどう考えても動物性食品より美味しくない。これは何としても否定することができな・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・人間の苦労は老衰の疲労に伴なう苦労ではなく、まだ訓練されていないこれから増進する力量に伴なう苦労である。吾々が本書で試みたように全歴史を一個の過程として眺めるとき、すなわち生命の着々たる向上的闘争を見るとき、その時こそ吾々は、現在の希望や危・・・ 宮本百合子 「世代の価値」
・・・普通の女、五十になれば老衰し切るがまだ若いところが多いだけ苦しいのだ。その若さがもがく、然し目的ない――生活の――。故に苦し。若くない、老人でない、その苦痛、同情すべし。 六月或日 Y机の前で旅券下附願につける保証書・・・ 宮本百合子 「一九二七年春より」
・・・ 芸術的老衰ということが、書けないということでなく、あまりにすらすら書けるということにも老衰があるということを、この作者は第三回にいっている。そして、自分がすらすら調子よく書きはじめているということ、これはなんだろうか、と反省をしている・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
・・・ 元来肉体の老衰は、皮膚や筋肉がだんだん弾性を失って行くという著しい特徴によって、わりに人の目につきやすいようですが、精神の力の老衰は一般に繊細な注意を脱れているように見えます。しかしわが国では、文芸家や思想家の多くは、四十を越すか越さ・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
出典:青空文庫